2017年1月31日火曜日

きのうの続き:オーストリア 公共の場でのベール禁止へ

<カナダの乱射容疑者、トランプ氏に傾倒か 現地報道>(朝日新聞デジタルより)

 昨日書いた事件について続報が出ていたので引き続き書きます。なお引用記事の見出しはあまり好きではありません。憂慮すべきは排他的な思想であり、トランプ氏ではないでしょう。耳目を引くような書き方だとは思いますが、違和感を覚えます。

 容疑者は一人。当初は別にもう一人が逮捕されていたそうですが「単なる目撃者だった」と釈放し、単独犯という見方に切り替えたそうです。このもう一人はモロッコ人だったそうで、白人でないということで決めつけがあったのではないかと勘ぐってしまうのは僕だけでしょうか。もちろん人のことを言うばかりでなく、自戒しなくてはなりません。恥ずかしながら、今調べるまでモロッコの正確な位置を認知していませんでした。アフリカ大陸のヨーロッパ対岸。きちんと確認していませんが、きっと住人の方々の人種も一概に分けられるものではなく、色々なルーツの方がいらっしゃるのでしょう。黒人系だろう、などと決めつけるようなことをしないように、また調べようと思います。

 少し別の話になりますが、上記の事件について調べている過程で、オーストリアに関する気になるニュースもみつけました。

Austria to ban full-face veil in public places>(BBC NEWSより)

オーストリアの連立与党が、公共の場でイスラム教徒が顔全体を覆うベールをつけるのを禁じることに同意した、との内容です。記事によるとフランスとベルギーでもすでに同様の施策が導入されているそうです。偶然に見つけた記事ですが、オイレン二巻の世界が垣間見えたようで嫌な気分になりました。そのうち軍が中東系の人を隔離しはじめる可能性さえよぎります。


もうひとつ気になった点を最後に紹介します。記事の中ではオーストリア外務大臣のセバスティアン・クルツ氏の発言として「中立に見られるということは重要なことだ。警察署や学校といった公共の場で扱われる人々にとっては特に」という言葉が報じられています。“警察署”や学校。そういった場所で扱われるのが第一と考えているのでしょうか。意地の悪い勘繰りですかね。

2017年1月30日月曜日

其の言にこれ恥じざれば、即ちこれを為すこと難し

 たまには時事ネタを書こうと思い立ちました。カナダのモスクでの銃撃事件について。

 <カナダ首相「テロ行為を非難」 ケベックのモスク乱射>(朝日新聞デジタルより)

政治や暴力的な話題に限らず、ニュースに関して言及するのは意図的に避けている部分があります。いろいろ調べて、背景を理解しないときちんとしたことなんて書けないのに、膨大かつ瞬間的なニュースをどう取り上げられるか?どうしても思ってしまうからです。一方で、世の中で大きく話題になっていることを全く取り上げないのも、露骨に背を向け目をそらしているように感じます。それは人間として正しい態度なのか、自問から抜け出せません。かといって考えないのは一番良くない。だから時々、具体的には月に一度くらいは、自分に強いることになんとなく決めています。書いてしまったのでなんとなくと言っていいのかは微妙ですが。

この事件の情報は日経が配信するメルマガで知りました。ちょうどNHKのニュース7を見ていたのですが、僕が見ていた限りでは取り上げられていませんでした。まさに同時にトランプ大統領のイスラム教徒入国禁止令のことをやっていたので、扱われてもおかしくないかとは思ったのですが。(イスラム教徒入国禁止令、というのは多分に適当な命名でまったく厳密ではありません。ニュアンスを伝えたいだけなので突っ込まないでください)テレビはやはりネットほど早く動けないのでしょう。


大変ショッキングな事件だと思ったので、他のニュースサイトでの記事も巡回しました。朝日、日経、NHKはほぼ同じで①6人死亡、2人逮捕②大統領が「テロ行為」と断じ非難③現場となったモスクは以前から豚の生首を置かれるなどの嫌がらせを受けていた、ということが書いてありました。配信が昼頃の速報と18時ごろの詳報の二段階に分かれているのも共通しています。産経だけは昼にのみ配信されていて、③の嫌がらせを受けていたことも書かれていませんでした。なお、BBCでは上記の3点に加えて、置かれていた豚の頭に「ボナペティ!(めしあがれ!の意)」と書かれていたことも報じていました。こういう細かい部分で日本の中での認識の差、さらには日本と世界の認識の差が見えるような気がします。長くなってしまいました。できればまた明日。

2017年1月29日日曜日

思考が私の血肉

 気が散りやすいという話を前書きました。というのは、目についたものもそうなんですが、思いついたことに気が引っ張られてしまうんですよね。良いことも悪いことも、すぐ思いついてすぐ忘れる……。均等ならいいんですが、困るのは悪いことの方が引っ張られる時間が長いこと。昔あった嫌なこととかをいきなり思い出して、手や足が止まってしまったり。大事な時に自分の気持ちもコントロールできないなんてのは大人と言えませんから、なんとかしなくては。

 ただ、現代科学の進歩で、思いついた良いことはすぐ活かせるようになったと感じています。そう、スマホのおかげです。気になったワードやニュースをすぐ調べて、最新の情報を取得することができますよね。これはいい。思いついてすぐに調べられなかったせいで、何度も「あっ」という思いをしたことはないでしょうか。あの敗北感を味わわなくても済むようになりました。とはいえ、この利点から発生する別の悪い点も。思いつくことをどんどん調べていくこと(ネットサーフィンという。少し違うか?)に熱中してしまって、もともと何をやっていたか忘れてしまうのです。最近では年のせいか忘れる速度も加速していて、スマホを開いてもあれ、なにを調べようと思ったっけ、となったり。本末転倒ですな。


 このようにデジタル技術に翻弄された結果、何かをやっているときも、調べた時も、経過をすぐメモするようにしました。アナログと折衷したわけです。だから僕のスケジュール管理は未だに紙の手帳。過去の分もいまのところ全部とってあります。長い時間をかけて考えたことも、思いつきで書いたことも全て書き留められているわけです。自分という人間を確かに形作ってきたものの残滓が積みあがる。達成感というか、感慨というか、そういうものを感じられます。それが好きだからブログを書いたり創作なんてやっているんでしょうね。早くティアと夏コミの準備しなくちゃ……。

2017年1月28日土曜日

大学での専攻が会計学

 うすうすほのめかしていますが僕は愛知県在住です。だから(?)今日は名古屋市立大学の図書館に行ってきました。学術系の専門雑誌で読みたいものがあったのです。住宅地に囲まれるように昔ながらな感じのキャンパスが現れます。この住宅地がものすごく密集してつくられていて、隣同士でほとんど隙間がありません。暮らしにくくないのかしら、などと思いました。大きなお世話ですね。

 そもそもの目的である名古屋市立大学図書館はとても良い設備でした。海外の著名な学術雑誌の紙媒体版が置いてあるのです!しかも最新分まできちんと!!近年は大学設備の経費削減の風潮をうけて、海外雑誌はネットでしか見れず、しかも学内の人限定というパターンが多くなっています。そのような情勢で僕のような学外のものがフリーで読めるというのはたいへんありがたく、貴重な経験でございます。

なお僕がこれを確かめたのは、僕が興味があった会計学の雑誌だけです。(Accounting RevewもJournal of Accounting & Economicsも読めるなんて思っていなかった!) 名市大の経済学部は会計学に強いことで有名らしいので、その影響があるのかもしれません。他の分野の有名な外国誌も同じくらいの水準で取り揃えられているかはご自分でお確かめください。

 しかしあまりに感動したのでつい書いてしまいましたが、ちょっと脈絡がないですね……。ツイッタやブログで自分のキャラクターを/ストーリーを伝える難しさを感じています。見た目ではやはり、ひとつのつぶやき、ひとつの投稿で独立したもののように思えてしまいます。すると、文章もそういう風に作ってしまいますから。複数の投稿で一つの話題について書いてもいいですけど、2日分くらいが限度な気もしてしまいますし。今後の課題です。

2017年1月27日金曜日

トーイクにきょういく

 今日TOEICを受けてきました。団体用のTOEIC-IPだったので慣れた内容でしたが、世間で受ける公式のものは問題形式が変わってしまったそうですね。しかも去年からすでに。知るのが今更かつ遅い。

 僕はまだ新形式は受けていないのでよくわかりませんが、写真の問題と穴埋めが減って、かわりに会話から適切な答えを選ぶ形式が増えたそうです。妥当な流れだと思います。穴埋めなんていかにも日本的だし……。最初に配られる試験の説明の書類も少し変化が起こっていて、少し前から新しく始まったTOEIC speaking & writingの宣伝が併記されていました。でもこんなの、実際にやっている人はどれくらいなのかなあと思います。スピーキングやライティングに力を入れたいような英語学習者は最初からTOEFLをやるのでは?日本ではTOEICほど有名ないのは、なにより費用の問題があるとは思いますが。凝っている分TOEFLは受ける方も採点する方も大変ですしね。

 そう考えるとそもそもペーパーテストによる英語能力の診断とは、みたいな考えがよぎります。一度面接でもして英語で話させた方が能力が分かるでしょう。一人一人きちんと面談するコストと、お高いTOEFLの実施料とどちらがマシか?結局金の問題で考えてしまうのは良くない癖ですね。そもそもコミュニケーションとは人間と話したいという思いから発展していくものですから、細かい能力よりも外国人と話そうという意志により重点を置いた方が良いのでは、と思ったり。これからどんどんGoogle翻訳も進化して、人間が考えなくても言葉自体はつくれますしね。


ただ、機械がつくった(ここではあえてつくった、と言っていますが)言葉をどこまで信用できるかな、という新たな問いも思いつきます。あなたのスマホが話しているその言葉は本当にあなたの言葉か。とはいえ僕はスマホの仕組みもパソコンの仕組みも知らないんですけれど。突き詰めたらそもそも使えなくなってしまいます。エンジニアになればよかったか?パソコンやネットの仕組みを完全に理解しようと思ったら何学部に入ればよかったかな、情報科かな。

2017年1月26日木曜日

睡眠学習で気づいたら話せるようになりたい人生だった

 最近中国語の勉強を再開しています。とはいえ昔やっていたことなんて言っていなかったということを今思い出しました。大学の第二外国語で専攻していたのです。でも遅々として覚えられなかったなあ。だから今もまだやっているんです。発音と単語が全然頭に入ってこない。しかし僕にはやらざるを得ない理由がある、ゴゴゴゴ。来月中国旅行に行くからだ!(バァーン)ま、ガイドさんもいるし、向こうの友達に案内もしてもらうから、全然マストではないのですけれど。そもそもそれじゃあそんなに大したことないな。擬音をつけるほどのことでもないや。目標設定と姿勢の問題です。

 実は中国語をやっているときの悩みがあります。日本語でうまく話せなくなるのです。言葉が出てこなくて日本語で言いかえようとすると、なぜか英語が出てきてしまう。ちょっと待って、と言おうとしてJust a minute…とかうっかり言っちゃったり。バイリンガルか!エセ外国人みたいになっちゃうのでやめたいんですが。少なくとも僕にとっては、中国語を話す時と英語を話す時に使う脳の部位が同じなのでしょう。そうでなければ原因が思いつきません。得意な人は英語で話しているときは英語で考えるとたまに聞きますが、それも一緒ですかね。おいおい、遠回しな自慢か~?


 しかし、この英語で考えてしまう、という状態はなかなか興味深いと思います。その瞬間人格は変わっているのではないかと思うからです。僕は英語で話しているとなんとなくいつもより身振りが大きくなって、言うこともポジティブになります。はじめに言葉ありき、というフレーズがマンガなんかで使われますが(もとは聖書の言葉です)、人間精神は言葉によって縛られているのかもしれません。日本語と外国語で使う脳の部位が違うなら、そこに収納された人格も別のものが引き出されているのか、と妄想します。爬虫類の脳とか言いますもんね。ファフナーか。ああっ、ああっ、気分がいい!(マジキチスマイル)

2017年1月25日水曜日

わたしとあなたの関係はいかに


 Bloggerは投稿した本人のページビューもカウントしてしまうことを知って戦慄している……。戦慄なんて日常生活ではなかなかできません。貴重な経験かも?

 僕は注意力が散漫です。こんな珍しい経験があると、いつまでもそのことを考えてしまってやるべきことがにつきません。学校でも、職場でも、なにかがあるとそちらに気が向いてしまって、自分の机に黙って座って作業をすることができません。それで失敗したこともしばしば。いつも直そうと、色々対策は練っているんですが。
 
 一番ストレートなのは耳栓だと思います。ただこれは実現可能性が低い。始終耳栓をしていたら声をかけられても気づけないし、出歩くこともできなくなってしまいます。危なくてかないませんからね。次に考えたのがついたてですけど、これも同じ理由で却下。スペースを狭めるので作業効率も下がります。とはいえ、これらの問題は結局集団行動している最中に起こるものですから、一人で活動すれば考える必要はないわけです。集団生活はやめて独立独歩に暮らしましょう。他人と書いてヒトと読む。他人に迷惑をかけず、法律に違反していなければ、おおむね何をやっても良い国が日本だと思います。これは僕が好きな作家の森博嗣さんや京極夏彦さんの言の受け売りですが。そうだ、そのうちお二人の作品でお気に入りのものも紹介しよう。


 しかしもはや一人の人間さえあふれる世の中。大量の個人がネットで仕事をし、ネットで情報を得て、ネットで気晴らしをする。その先にいるのは曖昧で抽象的な「不特定多数」という何か。顔も見えず声も知らず、分かち合えるものは瞬間瞬間の意見のみ。そこに現実味や独自性はあるのでしょうか。YouTubeのコメント欄で楽しそうに会話しあっている人なんかはイマイチ僕には理解できません。今返事をかえした、自分に同意のコメントをくれたアニメアイコンアルファベットネームのその人がGoogleのつくりだしたAIでないとなぜ言い切れるのか?そこにいなければその人は生きているのか?ほらね、話が散り散り。

2017年1月24日火曜日

ロック音楽の話ばかりしているが、これはあまりロックな態度ではない


 最近あまり読んでいて楽しくない文章ばかり書いてしまった気がしたので、何か面白いことを書こうと20分ほど考え込んでしまいました。しかし結局小粋なジョークやウィットに富んだ小話は何一つ思いつかなかったので、何も考えずにキーボードを叩いています。今年の芥川賞作家の山下澄人さんはスマホで小説を書くそうですね。僕よりずっと年上なのに現代人らしいなあ。僕はパソコンで、キーをタイプしないと小説は書けません。プロットを考える時は逆に紙がメインです。ぼんやりした考えを落とし込んでいくには紙に鉛筆で書くのが一番好きなのです。裏紙に汚い字で殴り書きします。でも実際に言葉を連ねていくときにはパソコンが一番です。スピード的の観点からもですが「パソコンの前に座って」「キーを叩く」という動作で自分の体を縛らないと、集中して進められないんですよね。仕事というか、作業として取り組むことができなくなってしまうんだと思います。

 こういう時重要になりそうなのはBGMです。昔のニコニコやYouTubeには(今も?)、適当な画像が貼りつけられて作られた動画という名の作業用BGM集があふれていました。最近のニコニコやYouTubeには何が溢れているんですか?生主やユーチューバーの面白動画ですか?スマホで撮られたよく知らない人のアップを見たい人がたくさんいるんでしょうね。僕が作業用BGMにするのは「よく知らないけれど気にはなっている」歌手のアルバムです。かなり限定ですが。よく知らないから適度に聞き流せるし、気にはなっているからピンときた曲があればその後も楽しめるのです。最近聴いているのはこの歌手↓



a flood of circleというロックバンドです。メンバーチェンジを重ねながらも、去年で結成10周年を迎えたそうで、なかなかの人気(推測)。ボーカルの佐々木亮介さんの枯れた声が印象的で気に入りました。特にこの「Flyer’s Waltz」が前向きで格好いい曲なので聞いてみてください。



というわけで、ちょうど最近出たフルアルバム「NEW TRIBE」をずっと流しています。2年ぶりらしいです。「~年ぶりの」ってアオリ文でよく使われますけど、あんまり意味がないですよね。昔から好きだった人にとっては周知の事実だし、僕みたいに新しく聴き始めた人にはそれが最初のアルバムだから関係ないし。キリが悪いですがオチはありません。

2017年1月23日月曜日

でってゅう


 たいていのことはくだらないものだと思います。くだらない、というと過分にマイナスなイメージがついてしまうかもしれないので、もう少しマイルドに言いかえると、ささいなこと、くらいでしょうか。

 あまり具体的に場面を絞ると話が逸れてそうなので、あくまで僕が日頃の生活の中でぼんやり思っていること、という前提です。例えば、小さなことで怒り過ぎだと思います。そんなことにそこまで強く言い募ったり、拘る必要があるかな、という反応をしている人をよく見かけているような。まぁその方がいいかもしれないけれど、そこまで怒るくらいなら、どちらでもいいでしょう、と言う感じ。

 他にも、ワキが甘い、と思うようなこともあります。仕事の朝礼で、せっかくきちんとした格好で立っているのに、鼻毛がちょろりと出ているとか。なぜそこまでできるのに、鼻毛のひとつくらい剃ろうと思わなかったのだろう?あとは、また仕事での例えですが、部署の目標としてスローガンを決めたのに、唱和の時に言い間違えるとか。なんでそこを言い間違える?目がテンです。
 僕のパターンとして、こういうことを考えていくといつも「ま、自分もそうだけど……」という話になってしまいます。例えば、細かいことをいつまでも気にしてしまったり。周りに騒がしいものがあると、自分に全然関係なくても気が引っ張られてしまったり。(少し違うか?)自覚があるのにいつもそんなことばかりです。つまるところ、こういう僕が考えていることさえも抜けだらけのささいなこと……、という結論に落ち着きます。

 暗い考えと言われるでしょうか。自分でも半分くらいはそう思います。ただ、もう半分では前向きにもとらえています。どうせ周りも自分もくだらないものばかりなら、自分の好きなように、自分が価値を見出せるものだけを見ていればよいと。そうやって誰もかれも他人のことなど気にせず、ただ各自が行きたい方向にだけ向かっていれば、衝突もなくなって平和な世の中になったりして。自分の我を通せ、という意味ではなく。話が綿毛みたいに散り散りになってしまいました。

2017年1月22日日曜日

心を無にしたい、という一言(じゃあ書くな)


 あまり考えない、というのは作業を進める上で重要な点だと思います。一度その作業に取り組んだらいかにそれを効率的に実行するかだけに注力する。もちろんそのためには、事前によくやり方を検討しておくこと、つまり考えておくことが必要になりますが。一度やり始めたら、集中してそのことしか頭に浮かべないのが肝要でしょう。
 
 僕なんかはイマイチこれが苦手です。事前にやり方を考えたりするのは好きで、むしろ考え込んでしまって作業に取り掛かれないなんてこともしばしば。でも、せっかくよく練って、その通りにやろうとしても、ついつい他ごとを考えてしまうのです。このブログを書く時にもいつも直面しています。書き方は決めていて、その日見聞きしたことから紹介したいものや、思ったことをそのまま書く、という風にしているのですが。いざ書き出そうとすると他のことが気になる。今日触れるこの歌手の次のライブはいつかな→あっ、対バン相手のこのグループ、まだ活動しているのか→タイアップのドラマがあるぞ、面白そうだな……という具合。程度の差こそあれ、どなたもこういう経験はありませんか。
 
人間に対する機会の強みのひとつはここだと思います。プログラムで言われた通りのことを、言われた通りに完璧に実行する。何回やらせても飽きて能率が落ちたりもしない。機械への批判(苦情?)として、融通が利かない、なんてよく言われるような気がしますが、その欠点を鑑みてもこの利点は素晴らしい。1万回のよくあることにきちんと対応してくれれば、1回の特例にうまく対応できないくらい、気にするようなことではないでしょう。人間だって完璧ではないのですから、その人間様が造ったものに完璧を求めるのは高望みというもの。


とはいえ。だからといって、効率的にやろう、という意志を失ってはいけないとは思っています。最近は特にそういう姿勢が重要視される時代。定期的に一定の質の結果を出さないと、誰も見向きしてくれなくなってしまうのではないか、という恐怖があるのです。大げさかな。ネットで他の人の意見でも見てみるか。どうせ覚えていられないけど。お、ツイッタのトレンドワードに面白そうなのがあるな。ああ、また……。

2017年1月21日土曜日

あんた↑がタラタラ走っとるでいかんわ~

 今日高速道路で移動する機会がありました。僕は愛知県民なので、あの高くて遅い名古屋高速です。また、これは一般道も含めた愛知県全体の問題かもしれませんが、いわゆる「名古屋走り」でも悪名高い。よく言われるのは、車線変更でウインカーなど出さない!車間距離はガン詰め!!後者は分りませんが、前者は明らかに法律違反ですよ。ダメ、ゼッタイ。このフレーズ古いな。この辺の危険運転はあまりにも見かけるからもはや何も感じなくなってしまいました。巻き込まれないようにして自分の身を守るだけ。ただ今日気になったのはこの二つではありません。

 今日はちょっと道が混んでいたので、僕はずっと走行車線を制限速度内で走っていました。そうすると、各所の入口から追い越し車線に入ってくる車が視界に入ります。名古屋は街のつくりの関係でなぜか追い越し車線から入らされる入口が多いのです、コワイ!そういった車はしばらく追い越し車線を走ってから走行車線に入ってくるのが普通です。

 僕が気になった場面はこの後発生します。僕のような制限速度で走っている車があった場合です。急いでいる?(推測です)車は、まあ車線変更して抜かしていきます。ウインカーは当然のように出しませんが。それはともかく、車線変更による追い越し自体は普通の行為ですね。追越車線、というくらいですから。ただ、名古屋の車は追い越してもさっさと走行車線に戻ってしまうのです。抜かして、その車よりちょっと前に出たら、すぐ同じ車線に戻ってしまう。その車間の狭さたるや!

前述したとおり、車間距離をガン詰めするのが名古屋流なので、そのクセが追い越しから戻る際にも残ってしまっているのかもしれません。しかし高速道路では車間を一般道以上に空けないと、何かあった時に大変危ないというのはご想像頂けるでしょう。しかも、戻ってもまたちょっと遅い車が現れただけで追い越そうとする。しかもまたすぐ戻る。まるでジグザグ運動のようです。抜かされた車の運転手がほんの一瞬ぼんやりしていて、激突したりしたらどうするつもりなのでしょうか。


計測したわけではないので断言はできませんが、こんな風にちょこちょこと抜いて戻ってをしても、あるいはずっと制限速度で走っても、到着時間は変わらないでしょう。特に混雑している状況においては。燃費も悪くなるし、良いことがありません。こういう名古屋の風習は変えたいです。人生もそういうものでは?(飛躍)

2017年1月20日金曜日

純粋に良いものを良いと伝える

 音楽を言葉で語るのは難しいと思います。「歌詞が良い」とか「メンバーが格好いい」という風に、何かの要素をピックアップするのは使われる気がしますが、この辺もなかなか。結局のところどんな要素もメロディーと不可分だと思うからです。『このメロディーで聴くから』ある歌詞が耳に入りやすい、『このメロディーの中で観るから』あの演奏が格好いい、という風に感じているのというのは多分にあるのではないでしょうか。なぜこんな話を書いたかというと、今日は音楽紹介をしたいと思ったからです。書く以上は読んで価値のあるものを残そうと僕は常々目指しています。背伸びしてそういうことを考えるから筆が遅くなるんですが。さて、今日紹介するのはこの曲。




  winnieの“forget me not”という曲です。winnie2002年結成の男女ツインボーカルエモーショナルロックバンドで、結成15年目の今年に至るまで全国各地で精力的にライブ活動をしています。こんな風に一言で書くと伝わらないけど、ほぼ月2(※正確に数えてはいないよ)で東西南北のライブハウスで演奏しています。例えば今月は名古屋で演った翌週に東京で演奏し、さらにその翌週は仙台。移動だけでも大変なのに、暑い照明の中ずっと歌い続けるんですぜ。その大変さを想像してくだせえ旦那。

 ギターボーカルのioriさんのちょっと人間っぽくない声がこの疾走感のあるメロディにのると、すごく前向きなイメージが心に湧くんですよね。okujiさんというもう一人のギターの方の作曲と男声ボーカルがきっちりそのイメージを支えているような感じで。ライブも何度か行ったことがあるんですが前述の地道な活動とあわせて、音楽へ誠実に・前を向いて取り組もうという思いが伝わってきます。

 さらに今回では、この曲を聴きながら読みたいマンガを紹介します!僕はやはりそちら側の人ですからね。こちらです。 



「もののがたり」!幽世から現れる付喪神を封印するために、同じ付喪神と協力しながら戦う主人公と、秘密を抱えたヒロインの生活を描いた和風アクションマンガです。作者のオニグンソウさんは陰影を活かした画風が特徴的で、これがwinnieのイメージカラーでもある白と黒の水玉と大変にマッチします。一度試してみてください!!

え、エモーショナルロックって何かって?さぁ……。分からなくても良い曲は良いと分かるのでは?

2017年1月19日木曜日

舞台化の話?しないよ

 昨日の直木賞&天地明察舞台化ネタが今までで一番ビュー数を稼いでいて少し驚きました。やはり時事ネタは強いのかな。あまり賞とかをきっかけにしてモノを買ったりしたことがないのでよくわかりません。そもそもなぜ芥川龍之介はみんな知ってるけど直木三十五は知らないのでしょうか。宣伝が悪かった?

 我らが冲方さんの落選については特にコメントはありません。ちょっと前にツイッタで言いましたが、天地でムリだったのだから「12人の~」で獲るのはキツいでしょう、という一言に尽きます。この考えには僕はミステリがあまり好きでないから、というのも多分にあります。ミステリって論理の説明が先行してしまって、登場人物の考え方や生き方が脇役にされてしまうように思うんですよね。ま、それがウリなんだから仕方ないんでしょうけれど。だからあんまり言いません。
 
 生き方とか考え方、とかいう話でいくと、最近不必要なものは買わないように心がけています。単に節約のためでもあるけれど、自分の周りにいらないものがある状況が耐えられないんですよね。必要なものだけに囲まれていたい。必要だと思うことができれば、マンガでもゲームでも全然買うんですが。最近流行のミニマリスト(もはや流行っていないか?)の方々も似たような考え方に立っていると思います。

 そういう考え方が社会に求められているとも感じます。トヨタ式、ジャストインタイム。カイゼンカイゼン、無駄なものを徹底して持たない。あ、こんなことばかり書くと仕事がバレるかな。日本人がそういう考えが好きなのかもしれないですが。日経新聞とかによく書いてある「日本人は労働生産性が低い!UPしよう!!」的な話も同じ根っこの発想では。


でも実践しようとして思うのは、こういうスタイルは疲れる、ということです。仕事も余暇の時間もフルに使え、ってことですからね。いつもいつも次にやることを考えてしまって、心に落ち着きがなくなる。人間はなんとかして考えないで済むようにしたい生き物だと思い知らされます。こんなに脳がデカいのに。ただ、そういう生理的な欲求を押さえて、一生懸命時間をつくって、何かに打ち込む。その先にきっと良い成果があるのでしょう。そういったものが社会を進歩させてきたと思います。

2017年1月18日水曜日

直木賞の思い出~「天地明察」舞台化の野望~

 明日は直木賞の選考会ですね。冲方サミットでも待ち会参加告知がされていました。僕が都民だったのはかつての話なので、今回は参加できません。ユーストニコ生してくれるなら見たいなあ。待機。

 「天地明察」が直木賞にノミネートされた時期は僕にとって結構印象深いです。ちょうどその少し前に、冲方さんとメールのやり取りをしたんですよね。当時僕は高校で演劇部をやっていて、そこで「天地明察」を舞台化しようとしたんです。自分で脚本を書いて。「天地明察」も冲方さん自身もまだメジャーになる前で、ブログの更新頻度も高い時期でした。そのせいか、メアドも公開されてたんですよね。今思うと結構冒険したな。

 返信も結構早かったような覚えがあります。古いパソコンから送ったメールだったので、処分した時に一緒に消えてしまったんですが。快く承諾してくれて「晴海も草葉の陰で喜んでいるでしょう」というような内容で。ただ、せっかくご厚意を頂いたのに、僕の筆力がないせいで部内での選考に通れず、舞台化は実現できませんでした。まさに“思い及ばず、力及ばず”……。その後「天地明察」は人気作になり、冲方さんもすっかり人気作家になってしまって、メアドの公開も止められてしまいました。なのでこの野望はそれきりです。返事が来た時、また自分の脚本が落とされた時、どう思ったのかは正直よく覚えていません。返事が来たときは嬉しかったし、落とされた時は悔しかったような気がするんですが。

これ以降あまり僕の創作活動はいい結果が出なかったです。高校三年の時に冲方さんと張り合おうと思って原稿用紙250枚の長編を書いて賞に出してみましたけど、一次審査で落ちました。これが結構ショックで、それ以降少し創作から離れてしまったり。そういうのもあって覚えていないんですかね。


 ただ最近は、今書いているという事実が重要だと思うようにして、作品をつくっています。

2017年1月17日火曜日

π飲みの方が好きだけど ※誤植ではありません

 今日源氏π、もとい源氏パイの由来を調べる機会がありました。(僕のPCでは一発変換してくれなかった。)製品が完成した際、和風の名前をつけたい、と検討していたところ、ちょうどその翌年の大河ドラマが「源義経」に決まったため、とのこと。イマイチ信頼できる情報源が見つからなかったので確証は持てませんが。

 この名前、とにかくキャッチーですよね。由来は実は何でも良いのです。人間集団のある一族の名称である「源氏」+嗜好品である「パイ」。人間と人外たるお菓子の奇跡の遭遇。機械が最初では予測変換できないくらい遠い存在同士の合一。

予測変換で出せない、というのはなかなか重要だと思います。少し話が遠回りになりますが、僕はスマートフォンではSimejiという言語入力アプリを使っています。これのウリは強力な予測変換能力で、実際のところ大変便利です。ひらがなで入れるだけで最適(と思われる)予測変換を真っ先に表示してくれます。クラウド変換という機能があり、ネット上のサーバーにユーザー全員の利用履歴を収集・保存し、この記録から一番使われている回数が多い用法を提案しているのでしょう。

 しかし、使用頻度が多い変換(語法)を自動で優先的にサジェストされてしまう、というのは危険な場合もあると思います。生理的な嫌悪感さえ感じます。思考は言葉によって定義されるものであり、多くの人が使う言葉を用いるということは、考え方まで多くの人と同じく横並びにされてしまうということだと思うからです。
 
 だからこそ、源氏パイのような変換しにくい言葉の希少性が生まれます。一度の変換では現れず、現れるまでにも様々な言葉同市、もとい言葉同士の組み合わせを見ることができるのです。その一期一会のマッチングにより生まれる言葉が想像させてくれる風景は、とても刺激に富んでいると思います。


 僕も人間ですので、目指す言葉が一度で変換できなかったり、タイプミスで妙な言葉を書いてしますと結構な確率で苛々してしまいます。とはいえ、そういう徳にも、否、そういう時にも価値を見出せうようにしたいです。後半はちょっとやりすぎたな、ここまでくるとただの誤植&読みにくい文章に認定されてしまうぞ。しかし言葉同市ってどんな市かな。Cityかな、marketかな……。

2017年1月16日月曜日

ハンドシェイカーのバストスウィング(後編)

 さて、昨日の続きです。端的におさらいすると、今期の新作アニメ「ハンドシェイカー」での乳揺れ表現が叩かれるのが気に食わないから反論しよう、という話です。乳揺れ、って結構卑猥な字面だな。R-18。使うけど。

 さて「ハンドシェイカー」での乳揺れの何が叩かれた方というと、ものすごくゆさゆさ(・・・・)ね。表現対象った主人公クラスメイト女子ったが、ちょっと上下っぱいボールたい気持悪い、という趣旨

 しかし、この批判に僕は意義を唱えたい――(おおげさ)、昨今はこういう表現こそウケるのだと。
 その例となる作品がかの有名な「君の名は。」これを劇場で観た時僕が一番衝撃を受けたのは、瀧in三葉が自分(?)のおっぱいを揉むシーンでした。

この画像だけ切り出すとよりヤバさが増すように思う


その時僕はうわ、お下品やろ!と内心で叫びました。こんな露骨な表現は嫌がられるに違いない、目はそらされ、抗議殺到だ、と。しかしその瞬間劇場に巻き起こったのは、まさにどっ、という感じの笑いだったのです。男女双方からの。
それだけで僕にとってはかなりの衝撃です。いきなりの右ストレートです。しかしこれだけでは終わらず、おっぱいもみもみシーンは続くのです。確か3度ほど、くどいくらい繰り返されました。そしてそのたびに巻き起こり、どんどんと勢力を増す笑いの渦!まるで連続ジャブ!!

この反応は、たまたま僕が観に行った劇場・僕が観に行った回だけのものだったかもしれないので、断言はできません。しかし今現在も大ヒットを続けている「君の名は。」の実績から鑑みると、昨今ではこういうちょっと露骨なくらいの表現がウケるのだと思うのです。あっはっは、ばかばしいなぁ、というような感じで。そしてこれこそライトユーザーから、アニメに求められているものなのではないかと推測します。

軽く調べてみると「K」でも同様の表現があったとのこと。「ハンドシェイカー」の制作陣はこの事実を察知しており、かねてから意図的にオーバーな表現をしているのではないでしょうか。特に「ハンドシェイカー」はキャラクターデザインも低めの頭身・大きな目という若年層向け作品のような趣向です。制作陣の意図は分りませんが、このデザインからアニメを見始めたばかりのライトユーザーをターゲットとしていると仮定すれば、より納得できます。


 うーん、安い評論ブログみたいなことを書いてしまった。もっと説得力のある文章にしたいけれど、今の自分にある能力と時間じゃこの程度……。自戒も込めて公開し残します。

2017年1月15日日曜日

ハンドシェイカーのバストスウィング(前編)

 この2日間はほとんど一切家から出なかったので、録りためた今期のアニメを一気見していました。前情報なく観た作品はほとんどなかったです。大体「銀魂」みたいな続き物か、あらすじや登場人物を聞いていたもの。「亜人ちゃんは語りたい」とか「クズの本懐」とか、前から広告が結構打たれてましたし。広告といえばヤングマガジン3rdは結構思いきりましたね。103円とは……。ニコニコ静画みたいな無料で読めるネット媒体がこれだけ普及している状況では、利益を減らすばかりであまりメリットがないのでは、と思いますが。いっそのこと一冊全部無料公開してしまえばよかったのに。でもそれだと紙で買いたい人に不公平感があると考えたのかな。

 というわけで、新規で観たのはこの2作だけでした。



 「ハンドシェイカー」(http://project-hs.net/) と、

 

 「ガブリールドロップアウト」(http://gabdro.com/)。

 前者は制作会社がGoHandsってことだけ知ってたんですよね。だから完全にまっさらな状態だったわけではなかったんですけど、内容は全然知らなかったので許して。後者も内容は全然知らなくて、タイトルだけで録画しました。響きが気に入ったのです。カタカナ2単語のタイトルが好みなのかもしれません。「ハンドシェイカー」もそうだし、「マルドゥック・スクランブル」もですね。あっ、「オイレンシュピーゲル」もそうだ!ひとつ新たな性癖に気づいたぞ。

 内容的には「ハンドシェイカー」の方が印象深いです。上の画像だと完全には分り辛いですけど、作画が独特でした。実際の風景を取り込んだ画像(素人なので推測)にアニメ作画を重ねて、さらにそこにCGを重ねています。明暗の強烈なコントラストと精密なCG作画が「マルドゥック・スクランブル」、「K」以来のGoHandsのウリだと思うんですが、それを突き詰めきったような印象を持ちました。これを活かしてどういう風にストーリー展開していくのか、先が楽しみです。少し調べた感想まとめサイトなんかだと「観難い」&「胸の揺れ方がおかしい」という批判意見ばかり取り上げられていましたが。確かに、キャラデザも含めて好みが分かれる画面になるので前者には同意できるんですが、後者は一言物申したいです。その理由はまた明日……。

2017年1月14日土曜日

川口けいたの憂鬱☜古い

 最近ネタに困っています。早い?聞こえません。

 厳密に言えば書きたいことはなんでもあります。ただ内心で、毎日900字くらい、かつその中である程度起承転結をつけようと決めていて。その条件を満たそうと思うと選択肢が限られてきちゃうんですよね。自分の考えでやっていることだから、そんな風に決めなくてもいいんですけど。書けられる時間という観点から、字数はこれを超えてしまうと生活の他の部分に影響が出るし。一応他人も見るものという観点から、読みやすいようにヤマとオチもつけた方がいいと思うのです。

 こういうやり方が自分は好き、というのも多分にあります。このブログをやろうと思った動機には「快適に読める」「まとまった長さの文章を」「素早く書けるようにする」という目標がありました(実は)。そのような練習的なことをする時は、いつもこういう風にルールを決めてやっているのです。

 似たような話で、最近ゴルフを始めました。友人に教えてもらいながらやっているのですが、クラブの持ち方やフォームがすごくこと細かいんですよね。日頃の生活では使わないような筋肉を酷使するので、打ちっぱなしに行った後はいつも体が痛みます。正直キツいです。しかし(まあ教えてくれた友人の言ですが)、そのようなフォームなどを厳密に守ることで、良いショットを打てるようになるそうです。プロも最初は必ずそうやるとのこと。世間で確立した制限/ルールにあえて従うことで、最短で一定水準を満たせるようになり、その先も目指せるようになるようです。
 

 そういう意味では、ブログのネタももう少しよくあるものを取り上げてみるのも悪くないかなあ。今のところ①冲方作品について②音楽③日々思ったこと、しか書いていないし。うーん、あ、今日は雪がたくさん降りましたね!(今更)僕の家の周りもかなり積もりました。そういえば冲方作品にはあまり雪のイメージがないな?ピルグリとカオレギ読んでないから断言はできないけれど。読まなきゃ。GARNET CROWはなんとなくイメージあるけれど、タイトルとかに入ってたりは案外しないんだよな。あれれ、結局話が戻る……。

フラッタして打撃くらった

 日付が変わってしまいましたが、13日の分です……。今日は飲み会だったので、許してくださいまし。一応これで10投稿目、10日間続けたことになります。自分エライエライ。

世間でも「継続は力なり」と言う人は多いように思います。僕自身もその言葉の信奉者で、ひとつのことを長く続けてことをやることに価値を見出しています。
一方で、同時に、それでも成果がでなきゃ意味がないよね、と考える冷めた自分も心の中に感じます。前者の考え方はこれまでの日本の風潮、後者の考え方は近年のこの国を含めた世界の風潮なのではないかと勝手に予測しています。

たとえば最近よく聞く「ワークライフバランス」というフレーズや「生産性を向上しよう」という掛け声。これらの背景にある志向は、仕事をばしばし片付けて、利益をあげつつ「今まで通りかそれ以上に」楽しく過ごそう、という方向性です。革新的なアイデアは減り、人口も減る。増えるのは老人ばかり。その状況で今と同じような暮らしを保つために“可能な限りさっさとやれ(注:一定の結果を伴いつつ)”。これは、短期での新しい成果を求めながらも、結局今までの生活に固執しているということでは?

こう考えると逆に、今まで通りの生活を保つ必要なんてあるのかな、とか思います。たとえば人の出入り。昨年アジアと中欧の数カ国に旅行に行ったのですが、どの国にも色々な人種の人がいました。翻って日本は同じような顔つきの人ばかり。2015年の難民認定者数は7586人の申請者中27人※1.もっと他の国出身の人に門戸を開くべきではないでしょうか。そうして人が増えてくれれば、無理に生産性を上げる必要なんてありません。

もちろん準備が必要ですし、問題も発生するでしょう。ヨーロッパにおいては近年移民への敵愾心も強まっていると聞きます。しかしそれは移民を受け入れようと試みた結果です。日本はまだそのようにトライしてさえいません。自分の印象ですが、既にちょっとした都市の飲食店などの非正規労働者には、外国人の方をたくさん見かけます。そういった方々と話す機会もありましたが、彼らは日本で働きたいという志を持ち、自費で日本語学校に通いながらアルバイトをしているのです。その現実と、彼らの意思に応えるべきでしょう。


集団の和を尊ぶことも、我が国が「継続」して抱いてきた価値観だと思います。それを自分の周り、自分と同じ人種の人のみにしか適用しないというのは、あまりに了見が狭い考えではないでしょうか。多少今までとは違う環境で暮らすことになったとしても、自国だけの発展ではなく世界の安定と平和を目指す。その先にはきっと、今までとは違う種類の楽しく愉快な暮らしという「成果」があると信じます。
あまりまとめた話にできなかったなぁ、という感触から今日のタイトルを。

※1 法務省2016/1/23付プレスリリース「平成27年度における難民認定者数等について(速報値)」
   http://www.moj.go.jp/nyuukokukanri/kouhou/nyuukokukanri03_00111.html

2017年1月12日木曜日

自分的冲方作品テーマソング その2-GARNET CROW「君を飾る花を咲かそう」

 というわけで(?)今日は「はなとゆめ」をとりあげます。まずは今回のタイトル通り、曲をひとつご紹介!↓






 GARNET CROW「君を飾る花を咲かそう」です。コナンのOP・EDをたくさん歌っていたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

 実はこの曲は前回、「はなとゆめ」をとりあげる!と言って(しまって)から慌てて探して選びました。安直に選んだと思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも今この文章を書くにあたり聞き返していると、これ以上「はなとゆめ」にマッチしている曲はないのではないか、という思いが強くなっています。少なくとも僕が知っている限りでは。

 この小説で一貫して描かれているのは「自分が価値を見出したものを抱き続ける」ということだと思います。主人公の清少納言が仕える中宮定子は夫である一条帝を一心に愛し、また愛されるために、酷い嫌がらせを受けても朝廷で凛として暮らし続けます。同時に清少納言も定子の生きざまを見届け、その暮らしで感じた愛しさや素晴らしさ、すなわち花を「枕」こと枕草子として残そうと力を注ぎます。清少納言のその生き方を「君を飾る花を咲かそう」の歌詞は言い表しているかのように感じるのです。

 作中の印象的な場面で、清少納言は繰り返すかのように、花を見たことを後悔したりしない、と言っています。その花が見せてくれた素晴らしい景色が“わたしをわたしでいさせてくれるのですから”と。(文庫版P346より引用)
 清少納言が定子とともに歩んだ人生から得たのは、まさに“数え切れないやさしい想い出を包み込むほどの甘い香り”であり、それを「枕」として書き残すことが自分よりも先に旅立った定子へ“出来ること”だったのではないかと思います。この曲を聴いていると、最初は定子に顔を見せることさえ恥ずかしがり“出来ることは何もない”と委縮していた自分を乗り越え“強く生きる”ようになった清少納言の姿が浮かんでくるような気がします。

 GARNET CROWはすでに解散してしまいましたし、「はなとゆめ」も少し前の作品です。しかしそれゆえ手に入りやすい!前者はベスト盤が出ているし、後者は文庫が発売済みです。ぜひ手に取ってみてください。

2017年1月11日水曜日

”わたしは花を見たかった”

 最近本を読めていないです。でもこの「~できていない」という表現が好きではありません。目が覚めていて手が動かせれば本を手に取って内容を理解するくらいのことはできます。だから正確には他のことを優先して読んでいないのです!……自分で言っていて辛くなってきました。テスタメント3は一周しただけだし、冬コミで頂いたご本も少しずつしか進められていません。ふがいない。

 とはいえ、普通の生活においては本というのはその程度の存在にしかなれないのかもしれません。最近は世の中に短い文章ばかりがあふれて、まとまった文章を読むのが辛くなる環境になっているし。

 手に入れにくいのも大きな難点ではないかと思います。ジャンルが膨大にあるから、書店で目当ての分野を探しだすのさえ一苦労。入荷さえなかったりしますもんね。テスタメント3を必ず発売日にゲットしようと思って大きな書店に予約しに行ったら「配本予定がないからムリ」と追い返された苦い思い出がよみがえります。そもそも書店自体も減っていますし。しかし逆に、だからこそたまに買って読み進めた本の何気ない一文が心に残るということがあると思います。

 これは太古の昔から同じだったのではないかと思います。というのは、昔は紙に文字を書いて本とする、という行為自体がとても大変な作業だったからです。印刷が実用化されるまでは全部手で写していたわけですからね。その流通量の少なさたるや!現代とは逆の方向で、手に入れるのが困難だったことでしょう。その労苦を乗り越えて手にし、読み込んだ文章は、当時の読者の心に何を残したのでしょうか。

 前置きが長くなってしまいました。冲方丁さんの「はなとゆめ」を取り上げようと思います。「天地明察」や「光圀伝」ほどは話題になりませんでしたが、この二作で時代小説を書く力を十分に蓄えた冲方さんが、その実力を活かして執筆した良作です。初の新聞連載小説で、しかも地方紙限定だったので、僕は近所の大学図書館に通って読んでいました。(笑)さて、そのどこが良いかは……字数がなくなってしまったので明日以降にします。別に常に区切りをつけなくても、人生は続くし、愛しいと思えるものはそこにあります。(におわす)

2017年1月10日火曜日

自分的冲方作品テーマソング その1-la la larks 「self」

 音楽は好きですか?僕はかなり好きです。どれくらい好きかというと、今流行りの音楽聴き放題サービスA〇Aに毎月課金しつつ、2,3か月に一度はライブハウスに出向くくらいです。日々の生活にも音楽が欠かせません。特に創作をする時には音楽から着想を得ることも多くあります。

 というわけでこのブログでも、僕が好きな音楽やインスピレーションを受けた曲について書いてみようと思います。今回からしばらくのテーマは、タイトルにもある通り『自分的冲方作品テーマソング』!僕が好きな音楽のうちに何曲かある、僕が勝手に冲方作品の主題歌(挿入歌?)として認定したものをご紹介します。今日取り上げるのはコチラ↓

 ロックバンド、la la larksの「self」という曲です!この曲はトップクラスに値する『シュピーゲルOP』認定を受けています。(笑)
 電子音を活かしたアレンジと疾走感がシュピーゲルの世界観にとてもマッチしていると思うんですよね~。イントロはシンセサイザーとギターだと思うんですが、耳をつくような鋭さがあって。

 歌詞の導入もちょっとシリアスで“手を振る昨日 声もかけずに 遥か彼方”とか“君はそこで終わりだよ”と、ドキッとするようなことを言われています。けれどもそこからサビにかけての前向きな変化が、まるで涼月をはじめとした特攻児童たちの心境を表しているようなんです!2番のサビの“散々な毎日も大丈夫 決めたんだ 立ち止まらないよ”なんてまさにそう。“絶えざる光“に向かって走る/飛ぶ涼月と鳳の映像が目に浮かびました。

 la la larksはあまり派手に活動しているグループではありませんが、一般向けにもアニメ界隈にも実績があります。栗山千明さんに楽曲提供したり、アニメ「空戦魔導士候補生の教官」のEDを歌ったり。なにより忘れてはいけないのが、最近話題のFGOのテーマソングである坂本真綾さん「色彩」の作曲・演奏を手掛けていること!

 この「self」はバンド公認でYouTubeにおいてフルで聴けます!他の曲も公開されているものがあるので、ぜひ聴いてみてください~。次回は冲方作品「はなとゆめ」を取り上げる予定……。

2017年1月9日月曜日

なんと築くのは難しく壊すのは簡単なことか

 人からの信頼のことです。生活では、仕事でもプライベートでも、信頼が物事を動かすと思います。もちろん、それを成すために何らかの能力や才能が必要なことというのはたくさんあるでしょうが、それは必要条件。他人に何かをしてもらう/引き起こすためには「自分がその物事に値する」と相手に「信じてもらう」必要があるのではないでしょうか。


自己啓発本のようなことを書いてしまったな。じんましんが出てきた。嘘です。以上の文章は宣伝の導入なので刺身のツマみたいなものだと思ってください。さて、何の宣伝かというと。

C91の同人、通販開始しました!


結構用意が大変で、時間がかかってしまいました。お待たせして申し訳ありません。待ってないなんて言わないで。泣いちゃいます。嘘です。いくつか販売形態を検討した結果、上記のpixiv株式会社運営の同人通販サイト「BOOTH」を選びました。ステマ臭いですが、自分の検討過程を知ってもらいたいのであえて書いています。

ここで導入の話が僕の問題として現れます。つまり僕は信頼されていない!(ドンッ) ……書いていて辛くなる文言だ。この信頼されていない、というのはお客様から販売者として信頼されていないということです。お金を払えば必ず商品を発送してくれる、という確証がない。もちろんお金をもらい逃げしたりするつもりは毛頭ありません。しかしどこの馬の骨とも知れない僕が、こんなネットという宇宙に浮かぶチリのようなブログやツイッタでどれだけ「僕は善人です」と叫んだところで、そこに信憑性は皆無。少しでも僕が善良な人間で、きちんとした商品が確実に届く、ということを信じてもらわないといけません。そのためには、買う作業も手間や危険がなく、なるべく手軽にできるようにする必要もあると思いました。そのような環境が整備されているということは、暗にお客様のことを考えていると示してくれると考えたからです。この観点からすると、いまや有名SNSとなったpixiv様の運営サイト、という信用力は最適でした。操作性も悪くないし。

というわけで、なにが言いたかったかというと、
僕は普通のちゃんとした人間なので一冊でも買って頂ければ泣いて喜びます!(90度のお辞儀をしながら)

2017年1月8日日曜日

薄々気づかれているだろう

 文章を書く上では、タイトルを考えるのが一番苦手です。

タイトルは作品の一部分を抽出したものです。ひとかたまりの文章を名づけ、一つの作品にする。商業作品なら作品名という意味だけでなく、商品名という別の意味が発生する。その目的からして、不可避的に長い原文を別の短い言葉にせざるを得ない。

長いものを短くしたら、必ず失われる部分があります。それが僕には辛いです。短くまとめられない、でもなんとかして伝えたい思いや意見があるからこそ苦労して物語を書き上げた。それなのに、またそれを猛烈に短縮しないといけないのですから。そのほんのわずかな一言で、いったい何を伝えられるのか。いつもむなしく思います。
ただ一方で、世の中そういうことばかりのような気もします。つまり、膨大で抑えられない何かの、しずくみたいな一部を取り出して、それが終わったことにする。そんなはずないのに。

たとえば葬式がそうだと思います。ある人がいなくなり、その人が占めていた空間がぽっかりと空く。その喪失感は、身近な人の記憶からは一生消せない。でもだからといって常にその穴を意識して泣き暮らしていたら、他の人まで生きていけなくなる。そうさせないよう、「区切り」をつけさせるために社会が生み出したシステムが葬式ではないでしょうか。
死人のことを考えるのはここまで。これだけ長い時間大変な思いをして、手間をかけて焼いたのだからこの人も恨んだりしないでしょう。だからあなたたちもこのことは迅速に忘れて自分の生活に集中しましょう……。そうすれば社会も回っていくから。そして関わった人も、忘れてしまったことに罪悪感を抱かなくても済む。

そんな意図が透けて見える気がするので、僕は葬式が好きではありません。自分が死んだら即火葬して、海にまくか土に埋めてほしいと思います。その場に立ち会うのも、親兄弟くらいだけで十分です。
もちろん以上に書いたのは僕の個人的な嗜好の問題であり、他の方が葬式の場で死者を悼むことをなんら否定するものではありません。その場に誠実な心持ちで望むなら、それだけで十分に素晴らしいことだと思います。


ただ、そういった「区切り」のようなものでは処理しきれない、抑えきれない思いを書きたいと思っています。

2017年1月7日土曜日

”深い共感の念が湧いた。”

今回も昨日までの流れに引き続き、僕の好きな冲方さんの作品について書きます~。この投稿のタイトルでどれを扱うか分かったら相当な冲方フリーク!答えはこれ↓



 冲方丁の名前を最初に広めた起爆剤は「マルドゥック・スクランブル」だと思います。僕も読みました、シュピーゲルの次、2番目に(オイ)。変わり種の自覚あります(;^ω^)。いやでもちゃんと2番目には読んだし!当時出てた作品の中では一番有名&評価高かったから! 
 
 最初に読んだ当時は素直に感動したのを覚えてます。格好良かったんですよね、ひたすらに。シュピーゲルと同じようなことを書いちゃいますが、バロットもとにかくヒドい目にあうじゃないですか。しかも一般向け文芸だから描写も酷で。蒸し焼かれて首切られて皮はがされて変態に追われるんですよ?
 そういう心折れて終わってもいいような状況から――実際一回折れてますし途中で濫用という名の闇堕ちしたりしますけど――顔を上げて、生きる方法を探して前に進むんです。むしろバロットの暗い面も正面から描かれたからこそ、その生に向かう過程の描写が真に迫って、嘘臭さ、フィクション臭さがなかった。人間はこうあるべきだ/自分もこうありたい、と思わせられました。以下に引用しますが、全てのストーリーが語られた上で描写されるこのシメの一文が、冲方さんの示したかった情景そのものだったと思います。
 
 “バロットは、そこに帰っていった。
自分が一度死んだ場所へ。
そこで生きるために。”
  ――マルドウック・スクランブル 排気〔完全版〕P298より

一通り冲方作品を読み通してきましたが、それら全てにこの「一度は挫折しても、最後には苦難を乗り越えて生きる人」の姿が描かれています。こんなありていな言葉でまとめるのは嫌だし申し訳ないけれど……。


名古屋ティアにはオリジナル作品を出す予定です。僕も冲方さんが描こうとしている情景に、またその景色が読者に与えている感動に、少しでも並び立てるような物語を描けるように頑張っています。そんな感動を自分の文章でたった一人にでも与えることができれば、僕にとってはたぐいまれなる価値があるからです。これも冲方さんの受け売りですが、“人類は価値のもとで努力し、挫折する。(中略)それが人類の尊厳”なのですから。(マルドウック・スクランブル〔完全版〕あとがきより)

2017年1月6日金曜日

\フォロミッフォロユッ/

 剣司顔変わりすぎやろ。(小並感)
  今日は昨日の続きで冲方丁さんのことを書こうと思ったので、ファフナーBEYONDPVを観つつイグジストを聴いて気分を高めていました。イヤー格好いいですね。シリーズ全作ほぼリアルタイムで追っているので、どんどん成長していくキャラクタ達を見ると、一緒に年を重ねてきたようで感慨深いです。これも戦略か、うぶちんと中西Pに踊らされているな。さすがゲロの中で笑う作家と入院先に原稿を取りに行って笑うP、狂気の微笑みコンビ。←なにそれ。
 
 でも僕の冲方作品初体験はファフナーではないのです。なにをかくそうそれは……
 「オイレンシュピーゲル」!
 


 イヤー懐かしいですね。書いてる途中に気づきましたけど初版はちょうど10年前!
 最初に知ったのはハ〇ヒに挟まれてたスニーカー文庫の新刊告知でした。白亜雨月さんによる涼月の一枚絵が使われて、それが格好良かったんですよ。爆〇天使っている美少女&メカアニメを事前に知ってたので、白亜さんの名前と絵は知っていて。ピュア☆なメカ好き少年だった僕は「おっ、爆〇天使みたいな内容のラノベなのかな!面白そう!!」と思って気軽に手をとりました。まさかそれから今日までズブズブにハマってしまうことになるとは夢にも思わずに。

でも正直3巻までは「ふーん、結構面白いね」ってな感じだったんですよ。転機は4巻でした。これは少し後に読みだしたスプライトでも同じです。他のミリオポリス市民の皆さんにもそういう方がきっといると思ってます。3巻までは、なんとなくいま一つ足りないというか、浅いというか。涼月達も鳳達も確かに社会でヒドい目にあってるんですけど、どこか真に迫る部分がないように感じていました。それが4巻で一気にリアリティをもつんです!うわ、本当に心の底からヒドい目にあってるわ、って引いちゃうくらい。鳳は護衛してた証人を目の前でバタバタ殺されちゃうし、涼月は年頃の女の子なのに「そばにいるだけで息が詰まるほど臭い」とか言われちゃうし。(誤解を招く言い方)
でもそんな、本当に心の底から打ちのめされて倒れ伏したくなった状況からも、立ち上がるんですよ。フライ・ハイ・アンド・ファイトですよ。キープ・ムービング・フォワードですよ!僕は拷問が大嫌いだ!!転送を開封―!!!

……ちょっと発狂してしまいました。スペースがなくなったので他の作品については明日以降にします。とにかくシュピーゲルとうぶちんは最高です。


P.S.
書いてある内容が、冲方塾の一分動画企画のこの動画と酷似していますが、パクリではありません。なぜならこの動画の作成者も僕なのです。エヘン。