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畠山に激励されたみつほはついに『彼』と、
そして自分の気持ちと向かいあう。
くじけそうでも、目を合わせて笑ってみせるために。
散々な毎日でも、私はーー
そして自分の気持ちと向かいあう。
くじけそうでも、目を合わせて笑ってみせるために。
散々な毎日でも、私はーー
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『loop-廻る私を置いて行く-』
最終:第4章.
その週の木曜日の朝、みつほはいつもより一時間以上早く目覚めた。アラームも使わずに。
起き上がり、おもむろに窓を開ける。天気は秋晴れで、少し冷たいけれど気持ちの良い風が吹き込んだ。
顔を洗って、普段なら食事をとるところだったが、今日はいきなり掃除を始めた。溜まっていた服を洗濯機に放り込み、布団を干して、部屋中に掃除機をかけた。ベッドの裏に原因不明に落ちていた小物や、引き出しの隙間に曲芸的に入り込んでいた服なんかを発見しつつ。
「よし」
自然と声がもれ、満足感&達成感と共に時計を見ると、ちょうど通常起床する6時過ぎだった。まとめた要らないものやホコリは、空っぽだった一番大きいサイズのゴミ袋をぱんぱんにするほどだった。
お腹が鳴る。身体を動かしたせいだろう。レトルトのご飯を用意して、インスタントの味噌汁をつくり、冷蔵庫の奥から漬物を引っ張り出した。そんなものかと侮るなかれ。朝食に液体以外を摂取したのはいつぶりだろう?
「いただきます」
なんとなくそういう気になって、机の前できちんと手をあわせた。テレビもつけないで、無言で食べた。温かくて、美味しかった。
食べ終わったら化粧を20分かけて行い、スーツに着替える。今しがた役目を完全に果たしたゴミ袋を手に持ち、このスーツもそろそろ買い替えようかなどと思いながら外へ踏み出すと、秋晴れの空が広がっていた。抜けるような青空に適度な温度の風が吹いて、とても気持ち良い。しばし立ち止まり、味わった。
忘れずにゴミを出し駅に着いて電車を乗降する間ずっと、みつほは色々なことを考えていた。それらは時期の差こそあれど全て過去の物事だった。特に社会人になってからの、楽しかったこと、嬉しかったこと、辛かったこと……記憶の中のどの景色にも常に、ある人物がいたことにみつほは改めて気づいた。
結構見ていたんだなあと驚き、感心した。自分をほめてやりたくなった。
「おはようございます!」
到着して朝イチの挨拶もいつも以上、妙に大きな声を出してしまって、何人かに振り向かれてしまった。
「お、おはようございます、円さん」
畠山までちょっと驚いている様子。
「なに?引き気味じゃん」
「いや、そんなことは」
「ジョーダンだよ」
慌てた様子で首を振る畠山に近づいて、声をひそめる。
「今日、課長と飲みに行く」
息を呑む気配。
「それは」
しばらく間が空いて、畠山はようやく言葉を続けた。
「……楽しんできてください」
上目づかいで、なぜだか汗までかいている。
「楽しんで、って顔じゃないよ、ばーか」
笑って小突いた。
夜。
すでにみつほは歩き出していた。『彼』と並んで。
『彼』の婚約を知ってからのおよそ2週間の内で一番くらいの熱量で仕事にあたったみつほは、充実感と達成感と共に職場を後にした。ぴったり定時に。
定時あがりだったのは『彼』も同じだった。つまるところ連れ立って帰路についたわけで、妙な噂をたてられやしないかという危惧がみつほにはないわけではなかった。しかし『彼』は全く気にした様子もなく。
“じゃ、行こうか。円くん”
出がけにそんなことを言ってみつほの肩を叩き、席を立ったものだった。その様子があまりに自然かつ颯爽としていたので、同僚たちもごくためらいなくみつほに何事かと尋ね、みつほ自身もよどみなく答えた。
“ちょっと悩んでることがあって”
それは事実だったから、たとえみつほが仕事に関して、と添えなくても同僚たちは勝手に解釈してくれただろう。単に優れた上司として迷える部下の相談に乗ってやるのだ、と。
そう思うようにした。どうせ強弁したところで邪推する者はする。大体そんな悪気があったら木曜日なんて指定しない。
『彼』はみつほより背がずっと高くて、歩幅も大きい。それでもそんなに離されることはない。自分の歩く速さにあわせてくれているのだと察する。
「お店、こっちであってたかな」
『彼』に問いかけられる。みつほは微笑んで答える。
「はい。あまり覚えていませんか?」
「うーん、あの歓迎会の時以来だからね」
『彼』は困ったようにはにかむ。かわいらしい、などと不遜なことを内心で思う。
目指す店はみつほが予約した。自分で段取りをつけたかったし、行きたい店があったのだ。『彼』がみつほと同じ課に来た時歓迎会で使った、思い出のイタリアン・レストラン。
「婚約者さんは、怒りませんでしたか?」
リラックスした、だけど臨戦態勢の気持ちで、自然に踏み込む。
「特にそんな様子はなかったね。信頼してくれていると思うよ」
ごくさらりと返される。瞬間、爪先がぐらついたような感覚。気のせいだ。足はしっかり地面を踏みしめて、みつほは『彼』を見上げている。
「それは、嬉しいですね」
みつほは心からそう言った。
「本当にね」
返ってきた言葉も、心からの気持ちに溢れていると思った。
店に到着して、みつほたちは他から離れた奥の席に通された。予定通り。予約するときに指定したのだ。
この店は静かで食べ物も美味しかったから、みつほは先の『彼』の歓迎会の後も気に入って使っていた。だから提案した時、『彼』がその後一度も行ったことがないと知ってぴったりだと思ったし、予約するならあの席だと決めた。
「懐かしいな」
『彼』は薄暗い店内のあちこちを見回している。みつほはメニューを差し出した。
「何、飲みますか?」
「イタリアンなら赤ワインかな」
「じゃあ私は、シャンパンで」
段取りを全て女がつけるなんてヘンかもしれない。でもみつほは気にしないことにした。
これはエゴだ。
私は、私が完璧に吹っ切れる状況で、さよならに逃げ込みたい。
たとえそれが過ちだったとしても。
「それで、今日はどうかしたのかな」
乾杯して前菜を楽しみパスタを待つ間、『彼』がさらりと問うた。
来た、とみつほは思う。
「どうって?」
問い返すと、『彼』は苦笑した。
「円くんが話したいことがあるって言ったんじゃないか」
「まあ、そうなんですけど」
濁し気味に返して、シャンパンを口に含む。喉が渇いていた。
「僕は驚いたよ。知り合った頃以来だと思ってね」
それは事実だ。フラッシュバックする。
『彼』が課に来てまだ間もない頃、ただの先輩と後輩だった時。
みつほは何度かこんな風に飲みに連れて行ってもらっていた。仕事の愚痴を聞いてもらうために。一部の下心を持って。
そのたびに的確な答えをもらえて、気持ちはいつもすっきりしたけれど、それ以上のことが起こることはついぞなかった。あの頃から、目は。
振りほどいた。
「確かに、言われてみれば。懐かしいですね」
ちょっと笑って、言葉にのせて記憶を追いやる。
全て過去のことだ。
私は今、この人の前に座っている。
「実は、先輩に、ずっと黙っていたことがあって」
心臓の鼓動が早まっていく。お酒のせいだけではない。
喉が渇いて仕方がない。からからだ。声が震えていないか不安になる。
「言おう、言おうとは思っていたんですけど」
余計な前置きを重ねてしまう。たった一言だけなのに、本当に伝えたい言葉を言い出せない。
長くしまいこんで、眺めているばかりだったから。引っ張り出すことさえ難しくなってしまった。
それでも。
「先輩がとっても幸せだって分かってるんです。こんなわざわざ連れ出してまで、邪魔して水差して、言うようなことじゃないって分かってるんですけど」
『彼』は黙っている。続きを促しているつもりなのだろう。
内心では不審がられているのではないか。
怖くて怖くてくじけそうになりながら。
それでも。
「好きです」
伝えるべき言葉を、口にした。
時間が止まった気がした。
もちろん気のせいだった。『彼』が一瞬目を丸くした後真顔になった表情の動きが見えたし、タイミング悪くパスタを持ってきたウェイターが現れたからだ。空気を察したのか、皿を置くと何も言わずすぐに去ってくれたのは幸いだった。
「……今日は驚かされることが多いな」
ウェイターが消えて、それでもなおたっぷり間がおいたのち『彼』はそう呟いた。独り言みたいだった。
「ごめんなさい」
思わず伏し目がちになり、謝罪が口をついた。
「なんで謝るんだ?」
「だってやっぱり、先輩にも婚約者さんにも失礼だし、私の自己満足で、迷惑にしかならないし」
謝るくらいなら言うなという後悔の念が洪水のように降り注ぐ。
「そんなことはない」
遮られた。
反射的に顔を上げる。剣な面持ちで真っ直ぐにこちらを見つめる『彼』の顔が眼前にあった。
「とても嬉しかった、ありがとう」
その言葉によって、みつほは歓喜と恐怖に同時に襲われるというかつてない経験をした。
否定されなかったという嬉しさが前者で。
その先を聞きたくないという怯えが後者で。
そしてどちらの気持ちも、目を合わせて向き合えという意志でねじ伏せた。
「だけど、すまない」
『彼』が言い終わってからもたっぷり10秒近く、みつほは目をそらさなかった。それだけかかって、なんとか自分を許してあげられると思った。
「分かってます」
力を抜いて、椅子に深くもたれる。
「課長こそ謝らないでください。私が勝手な気持ちを、勝手に伝えただけです」
『彼』はまだ姿勢を崩さない。真面目に続ける。
「なら僕だって、勝手に謝っただけだよ」
「ええ?屁理屈ですよ」
思わず少し吹き出した。それで安心したのか、ようやく『彼』の表情もほぐれた。
「いつから、だったのかな」
「うーん」
考え込む。改まって尋ねられると、はっきり答えられなかった。
「初めて会った時、かな」
だから、自分がそうだと思いたいことを伝えた。
「なんてこった」
『彼』がおおげさに天を仰ぐ。
「僕も鈍感だな」
「ホントです。いざ結婚してから、奥様のご機嫌損ねないように、気を付けてくださいね」
冗談めかして言うと、『彼』も訳知り顔で答える
「恐ろしい問題だな。ぜひ指導してくれ」
「昔の課長みたいに?」
「ああ。女心に関しては君の方が先輩だ」
「なんですか、その表現」
みつほは今度こそ相好を崩した。
恐怖も悲しさも消えて、充足感と楽しい気持ちだけが身体を満たしていた。
「パスタ、食べましょ。冷めちゃいますよ」
『彼』と目を合わせて、笑ってみせた。
「……それで、その後はどうしたんですか」
以前のように並んで座る畠山が尋ねた。数日後、例の畠山行きつけのバーカウンターにて。
店内は少しも暑くないのに、畠山はまたもやなぜか大汗をかいている。多汗症なのだろうか。
「どうもこうも。美味しくゴハン食べて、帰ったよ」
こいつは相変わらず変な後輩だなと思いながら、みつほはグラスを傾けた。今日は梅酒のロックだ。
店内には今日も他の客はいない。バーテンさんも引っ込んでしまった。大丈夫なのだろうか。
「お互いに話題にすることもない感じですか」
「そりゃないでしょ。私はあの場でカンペキに振られて、それで終わり」
手元にはこれまた例の海老のアヒージョがある。みつほは一尾フォークに刺して口に運ぶ。
「うわ、ホントに、梅酒でも合うね」
すっかり気に入ってしまって、ぱくぱく食べる。
「言った通りでしょ?いや、まあ、それはいいんですけど」
畠山はその隣でもごもご呟いている。
「じゃあもう、全然引きずってない感じですかね」
「全然?うーん、100%ではないけど」
「あ、や、やっぱりそうですよね、すみません」
「理由もないのに謝らない。前も言ったでしょ」
肩のあたりを軽く小突いた。
「お望み通り、バーンと指導してあげたつもりなんだけど」
「あっ、はい!ありがとうございます!!」
畠山は馬鹿正直に答えると、背筋を伸ばしてかしこまっている。
抜けてるというか、真面目過ぎるというか。
からかってやりたくなった。
「しっかりしてよ。畠山君、この間は余裕ある感じで、ちょっと格好良かったからさ」
囁く。
畠山は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
「こ、こ、この間、かっ、格好良かった、というと」
「畠山くんが鳩みたいに……、ハトヤマくんじゃん。あはは、面白い」
この間の余裕も一瞬繕ったのもどこかで失くしてきてしまったかのように慌てだす畠山を尻目に、みつほは一人で楽しくなって笑っていた。
毎日は散々だ。
自分自身につき続けた甘い嘘は、実現することなく終わった。
相変わらず部屋は汚いし、朝は憂鬱だし、新しいスーツも未だに見繕えていない。
『彼』と接するたび、残りカスみたいな想いが降って湧いたように胸の中を走り回る時もある。
それでもみつほは、自分は大丈夫だと思った。
決めたから。
立ち止まらないことを。
fin.