2017年10月30日月曜日

la la larks二次創作小説『loop』最終第4章公開!


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畠山に激励されたみつほはついに『彼』と、
そして自分の気持ちと向かいあう。
くじけそうでも、目を合わせて笑ってみせるために。
散々な毎日でも、私はーー
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『loop-廻る私を置いて行く-』
作:川口 けいた/各章扉絵:ガラス(後日公開)






最終:第4章.


 その週の木曜日の朝、みつほはいつもより一時間以上早く目覚めた。アラームも使わずに。
 起き上がり、おもむろに窓を開ける。天気は秋晴れで、少し冷たいけれど気持ちの良い風が吹き込んだ。

 顔を洗って、普段なら食事をとるところだったが、今日はいきなり掃除を始めた。溜まっていた服を洗濯機に放り込み、布団を干して、部屋中に掃除機をかけた。ベッドの裏に原因不明に落ちていた小物や、引き出しの隙間に曲芸的に入り込んでいた服なんかを発見しつつ。

 「よし」
 自然と声がもれ、満足感&達成感と共に時計を見ると、ちょうど通常起床する6時過ぎだった。まとめた要らないものやホコリは、空っぽだった一番大きいサイズのゴミ袋をぱんぱんにするほどだった。

 お腹が鳴る。身体を動かしたせいだろう。レトルトのご飯を用意して、インスタントの味噌汁をつくり、冷蔵庫の奥から漬物を引っ張り出した。そんなものかと侮るなかれ。朝食に液体以外を摂取したのはいつぶりだろう?
「いただきます」
なんとなくそういう気になって、机の前できちんと手をあわせた。テレビもつけないで、無言で食べた。温かくて、美味しかった。

 食べ終わったら化粧を20分かけて行い、スーツに着替える。今しがた役目を完全に果たしたゴミ袋を手に持ち、このスーツもそろそろ買い替えようかなどと思いながら外へ踏み出すと、秋晴れの空が広がっていた。抜けるような青空に適度な温度の風が吹いて、とても気持ち良い。しばし立ち止まり、味わった。

 忘れずにゴミを出し駅に着いて電車を乗降する間ずっと、みつほは色々なことを考えていた。それらは時期の差こそあれど全て過去の物事だった。特に社会人になってからの、楽しかったこと、嬉しかったこと、辛かったこと……記憶の中のどの景色にも常に、ある人物がいたことにみつほは改めて気づいた。
 結構見ていたんだなあと驚き、感心した。自分をほめてやりたくなった。

 「おはようございます!」
 到着して朝イチの挨拶もいつも以上、妙に大きな声を出してしまって、何人かに振り向かれてしまった。
 「お、おはようございます、円さん」
 畠山までちょっと驚いている様子。
 「なに?引き気味じゃん」
 「いや、そんなことは」
 「ジョーダンだよ」
 慌てた様子で首を振る畠山に近づいて、声をひそめる。

 「今日、課長と飲みに行く」
 息を呑む気配。
 「それは」
 しばらく間が空いて、畠山はようやく言葉を続けた。
 「……楽しんできてください」
 上目づかいで、なぜだか汗までかいている。
 「楽しんで、って顔じゃないよ、ばーか」
 笑って小突いた。



 夜。
 
 すでにみつほは歩き出していた。『彼』と並んで。

 『彼』の婚約を知ってからのおよそ2週間の内で一番くらいの熱量で仕事にあたったみつほは、充実感と達成感と共に職場を後にした。ぴったり定時に。

 定時あがりだったのは『彼』も同じだった。つまるところ連れ立って帰路についたわけで、妙な噂をたてられやしないかという危惧がみつほにはないわけではなかった。しかし『彼』は全く気にした様子もなく。

 “じゃ、行こうか。円くん”

 出がけにそんなことを言ってみつほの肩を叩き、席を立ったものだった。その様子があまりに自然かつ颯爽としていたので、同僚たちもごくためらいなくみつほに何事かと尋ね、みつほ自身もよどみなく答えた。

 “ちょっと悩んでることがあって”

 それは事実だったから、たとえみつほが仕事に関して、と添えなくても同僚たちは勝手に解釈してくれただろう。単に優れた上司として迷える部下の相談に乗ってやるのだ、と。
 そう思うようにした。どうせ強弁したところで邪推する者はする。大体そんな悪気があったら木曜日なんて指定しない。

 『彼』はみつほより背がずっと高くて、歩幅も大きい。それでもそんなに離されることはない。自分の歩く速さにあわせてくれているのだと察する。

 「お店、こっちであってたかな」
 『彼』に問いかけられる。みつほは微笑んで答える。
 「はい。あまり覚えていませんか?」
 「うーん、あの歓迎会の時以来だからね」
 『彼』は困ったようにはにかむ。かわいらしい、などと不遜なことを内心で思う。

 目指す店はみつほが予約した。自分で段取りをつけたかったし、行きたい店があったのだ。『彼』がみつほと同じ課に来た時歓迎会で使った、思い出のイタリアン・レストラン。

 「婚約者さんは、怒りませんでしたか?」
 リラックスした、だけど臨戦態勢の気持ちで、自然に踏み込む。
 「特にそんな様子はなかったね。信頼してくれていると思うよ」
 ごくさらりと返される。瞬間、爪先がぐらついたような感覚。気のせいだ。足はしっかり地面を踏みしめて、みつほは『彼』を見上げている。

 「それは、嬉しいですね」
 みつほは心からそう言った。
 「本当にね」
 返ってきた言葉も、心からの気持ちに溢れていると思った。

 店に到着して、みつほたちは他から離れた奥の席に通された。予定通り。予約するときに指定したのだ。
 この店は静かで食べ物も美味しかったから、みつほは先の『彼』の歓迎会の後も気に入って使っていた。だから提案した時、『彼』がその後一度も行ったことがないと知ってぴったりだと思ったし、予約するならあの席だと決めた。

 「懐かしいな」
 『彼』は薄暗い店内のあちこちを見回している。みつほはメニューを差し出した。
 「何、飲みますか?」
 「イタリアンなら赤ワインかな」
 「じゃあ私は、シャンパンで」

 段取りを全て女がつけるなんてヘンかもしれない。でもみつほは気にしないことにした。
 これはエゴだ。
 私は、私が完璧に吹っ切れる状況で、さよならに逃げ込みたい。
 たとえそれが過ちだったとしても。



 「それで、今日はどうかしたのかな」
 乾杯して前菜を楽しみパスタを待つ間、『彼』がさらりと問うた。

 来た、とみつほは思う。

 「どうって?」
 問い返すと、『彼』は苦笑した。
 「円くんが話したいことがあるって言ったんじゃないか」
 「まあ、そうなんですけど」
 濁し気味に返して、シャンパンを口に含む。喉が渇いていた。

 「僕は驚いたよ。知り合った頃以来だと思ってね」
 それは事実だ。フラッシュバックする。
 『彼』が課に来てまだ間もない頃、ただの先輩と後輩だった時。
 みつほは何度かこんな風に飲みに連れて行ってもらっていた。仕事の愚痴を聞いてもらうために。一部の下心を持って。
 そのたびに的確な答えをもらえて、気持ちはいつもすっきりしたけれど、それ以上のことが起こることはついぞなかった。あの頃から、目は。

 振りほどいた。

 「確かに、言われてみれば。懐かしいですね」
 ちょっと笑って、言葉にのせて記憶を追いやる。
 全て過去のことだ。
 私は今、この人の前に座っている。

 「実は、先輩に、ずっと黙っていたことがあって」
 心臓の鼓動が早まっていく。お酒のせいだけではない。
 喉が渇いて仕方がない。からからだ。声が震えていないか不安になる。
 「言おう、言おうとは思っていたんですけど」
 余計な前置きを重ねてしまう。たった一言だけなのに、本当に伝えたい言葉を言い出せない。
 長くしまいこんで、眺めているばかりだったから。引っ張り出すことさえ難しくなってしまった。
 それでも。

 「先輩がとっても幸せだって分かってるんです。こんなわざわざ連れ出してまで、邪魔して水差して、言うようなことじゃないって分かってるんですけど」
 『彼』は黙っている。続きを促しているつもりなのだろう。
 内心では不審がられているのではないか。
 怖くて怖くてくじけそうになりながら。
 それでも。

 「好きです」

 伝えるべき言葉を、口にした。
 時間が止まった気がした。

 もちろん気のせいだった。『彼』が一瞬目を丸くした後真顔になった表情の動きが見えたし、タイミング悪くパスタを持ってきたウェイターが現れたからだ。空気を察したのか、皿を置くと何も言わずすぐに去ってくれたのは幸いだった。

 「……今日は驚かされることが多いな」
 ウェイターが消えて、それでもなおたっぷり間がおいたのち『彼』はそう呟いた。独り言みたいだった。
 「ごめんなさい」
 思わず伏し目がちになり、謝罪が口をついた。

 「なんで謝るんだ?」
 「だってやっぱり、先輩にも婚約者さんにも失礼だし、私の自己満足で、迷惑にしかならないし」
 謝るくらいなら言うなという後悔の念が洪水のように降り注ぐ。

 「そんなことはない」
 遮られた。
 反射的に顔を上げる。剣な面持ちで真っ直ぐにこちらを見つめる『彼』の顔が眼前にあった。
 「とても嬉しかった、ありがとう」

 その言葉によって、みつほは歓喜と恐怖に同時に襲われるというかつてない経験をした。
 否定されなかったという嬉しさが前者で。
 その先を聞きたくないという怯えが後者で。
 そしてどちらの気持ちも、目を合わせて向き合えという意志でねじ伏せた。

 「だけど、すまない」

 『彼』が言い終わってからもたっぷり10秒近く、みつほは目をそらさなかった。それだけかかって、なんとか自分を許してあげられると思った。

 「分かってます」
 力を抜いて、椅子に深くもたれる。
 「課長こそ謝らないでください。私が勝手な気持ちを、勝手に伝えただけです」

 『彼』はまだ姿勢を崩さない。真面目に続ける。
 「なら僕だって、勝手に謝っただけだよ」
 「ええ?屁理屈ですよ」
 思わず少し吹き出した。それで安心したのか、ようやく『彼』の表情もほぐれた。

 「いつから、だったのかな」
 「うーん」
 考え込む。改まって尋ねられると、はっきり答えられなかった。
 「初めて会った時、かな」
だから、自分がそうだと思いたいことを伝えた。

 「なんてこった」
 『彼』がおおげさに天を仰ぐ。
 「僕も鈍感だな」
 「ホントです。いざ結婚してから、奥様のご機嫌損ねないように、気を付けてくださいね」
 冗談めかして言うと、『彼』も訳知り顔で答える
 「恐ろしい問題だな。ぜひ指導してくれ」
 「昔の課長みたいに?」
 「ああ。女心に関しては君の方が先輩だ」
 「なんですか、その表現」

 みつほは今度こそ相好を崩した。
 恐怖も悲しさも消えて、充足感と楽しい気持ちだけが身体を満たしていた。
 「パスタ、食べましょ。冷めちゃいますよ」
 『彼』と目を合わせて、笑ってみせた。

 

 「……それで、その後はどうしたんですか」
 以前のように並んで座る畠山が尋ねた。数日後、例の畠山行きつけのバーカウンターにて。 
 店内は少しも暑くないのに、畠山はまたもやなぜか大汗をかいている。多汗症なのだろうか。

 「どうもこうも。美味しくゴハン食べて、帰ったよ」
 こいつは相変わらず変な後輩だなと思いながら、みつほはグラスを傾けた。今日は梅酒のロックだ。
 店内には今日も他の客はいない。バーテンさんも引っ込んでしまった。大丈夫なのだろうか。

 「お互いに話題にすることもない感じですか」
 「そりゃないでしょ。私はあの場でカンペキに振られて、それで終わり」
手元にはこれまた例の海老のアヒージョがある。みつほは一尾フォークに刺して口に運ぶ。

 「うわ、ホントに、梅酒でも合うね」
 すっかり気に入ってしまって、ぱくぱく食べる。
 「言った通りでしょ?いや、まあ、それはいいんですけど」
 畠山はその隣でもごもご呟いている。
 
 「じゃあもう、全然引きずってない感じですかね」
 「全然?うーん、100%ではないけど」
 「あ、や、やっぱりそうですよね、すみません」
 「理由もないのに謝らない。前も言ったでしょ」
 肩のあたりを軽く小突いた。

 「お望み通り、バーンと指導してあげたつもりなんだけど」
 「あっ、はい!ありがとうございます!!」
 畠山は馬鹿正直に答えると、背筋を伸ばしてかしこまっている。
 抜けてるというか、真面目過ぎるというか。
 からかってやりたくなった。

 「しっかりしてよ。畠山君、この間は余裕ある感じで、ちょっと格好良かったからさ」
 囁く。
 畠山は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
 「こ、こ、この間、かっ、格好良かった、というと」
 「畠山くんが鳩みたいに……、ハトヤマくんじゃん。あはは、面白い」
 この間の余裕も一瞬繕ったのもどこかで失くしてきてしまったかのように慌てだす畠山を尻目に、みつほは一人で楽しくなって笑っていた。
 


 毎日は散々だ。
 自分自身につき続けた甘い嘘は、実現することなく終わった。
 相変わらず部屋は汚いし、朝は憂鬱だし、新しいスーツも未だに見繕えていない。
 『彼』と接するたび、残りカスみたいな想いが降って湧いたように胸の中を走り回る時もある。

 それでもみつほは、自分は大丈夫だと思った。
 決めたから。

 立ち止まらないことを。



 fin.

2017年10月15日日曜日

la la larks二次創作小説『loop』第3章公開!

こんばんは(既視感)。

もう前置きはやめましょう……。

la la larks二次創作小説『loop』第3章公開します!

ここまできたらもう逃げちゃいけない、進むしかないのです。

例えこれが過ちだとしても!

この3章では革命的に話が動き、最終章になだれ込みますよ~お楽しみください!!


↓↓↓本編は以下から始まります。↓↓↓


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畠山に飲みに連れ出された。
思いもかけない出来事に戸惑い、みつほは揺れ惑う。
その振動は心のがらくたの城を壊し、
奥底にあった気持ちを露わにした。
情けないくらいーー
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『loop-廻る私を置いて行く-』
作:川口 けいた/各章扉絵:ガラス(本章では扉絵はありません)

第3章.


 風がぴゅうぴゅう音をたてる。みつほは縮こまるようにして、知らない街を歩いている。

 まだ少しやる仕事があると言うので、畠山とはいったん別れた。再度落ち合う場所として指定されたのは、職場からもみつほの家からも何駅か離れた繁華街だった。

 “よく行く、良い店があるんです。”

 畠山はそう言っていた。気乗りしなかったが、職場の近くで知り合いに会うのも嫌だったので受け入れた。

 気が進まなかったのは正しい反応だった。平日の夜だというのに人がたくさんいて、あちこちでお店の灯りが見え、そこに集う人間の声が聞こえる。電車から出てしまえばあとは家までひとけなし、という生活に慣れている身には疲れる。
 やはり断ってしまえばよかったのだ。畠山の奴と二人きりで飲みに行くなんて、これが初めてくらいなのだし。気の迷いだったと思う。

 けれど、畠山の誘いに乗ってからの一度家に戻るまでの帰路、ほのかに気分が上向く自分も感じていたのだ。
 どの服を着ようとか、お化粧はどうしようとか。久しく忘れていた感覚だった。
 畠山なんぞで構わないほど飢えていたか、と自分を自分で嘲る。そして勝手に落ち込む。
 きっとあんな気分さえも気の迷いだったのだ。
 棚の奥から引っ張り出してきた高級なスカートも、めったに使わないブランドのカバンも、全部色あせて見えた。

 停滞する心とは逆にどんどん歩調は速くなり、人混みをかき分けるようにして進みながらもう今からでもUターンして家に戻ろうかとまで思ったその瞬間、みつほは待ち合わせ場所に着いてしまった。

 駅の正面広場を少し進んだところにある、大きな時計の下。定番の待ち合わせスポットとしてみつほでも名前くらいは知っていた。老若男女、等しく誰かを待っているであろう人がたくさんいる。

 知らず知らずのうちに首をひっこめ、うつむきたくなる。今更戻ることはできない。いや、待ち合わせた時間には未だ早い。畠山はまだ来ていないかもしれない。体調が悪くなったとか言って帰ってしまえば。
 そういう逃避的な思考は、足踏みしてたまたま身体を向けた先にいた畠山と目が合うことで粉砕された。

 「あ」
 畠山がぽかっと口を開ける。向こうも着替えていた。ほとんどスーツ姿しか見たことがなかったので、なんだか別人のように見えた。

 「あ、って何よ。先輩だよ」
 気持ちが逆転して、不機嫌な言葉となって口をつく。
 「あ、いや、すみません」
 慌てたように謝る。また同じ言葉を使っているのはわざとなのだろうか。
 「スーツ着てるところしか知らなかったので、なんかびっくりしちゃって」
 「格好つけてるって思った?」
 とげのある言葉を、刃物みたいに押し付けてやりたくなる。
 
 「そんなつもりじゃ」
 畠山の戸惑った様子に暗い満足感が湧く。ほら見ろ、私はこんなに嫌なやつだ。
 ただその気持ちも、続けられた言葉にしぼみこんだ。
 「その、こんなこと言うとアレかもしれないですけど、すごく綺麗だと思います」
 「……あっそ」
 結局それだけ言って、みつほは誤魔化すようにぷいとあらぬ方向を向いた。調子が狂う。
 
 「ええと、お店、こっちなんで。行きましょうか」
 畠山が待ち合わせた広場につながる大通りを歩き出す。慣れているらしく、人混みの中にも関わらずすたすた進んでいってしまう。前を歩かせるのは嫌だったので、遅れないように急いだ。

 お店は通りの途中で一本逸れた裏道にあった。ほんの少し奥に入っただけで急に人通りも灯りも減って、薄暗くなった中にぽつんとあった。
 「こんばんはー」
 畠山が間延びした口調で声をかけながら入っていく。みつほは慣れない雰囲気に一人でどぎまぎしていた。
 店内は狭く、カウンター席しかない。内側にはきちんとした格好で立つ初老の男性がいて、無言で微笑み会釈をしてくれる。男性の背後にはずらりとお酒の瓶が並んでいて、どうやらバーのようだ。お客はみつほたち以外に誰もいなかった。

 「カルアミルクとアヒージョ」
 畠山は座った途端、さも当然みたいな様子でバーテンとおぼしき男性に頼む。
「何その組み合わせ。普通ワインとかでしょ」
 「美味しいんですよ、ここのアヒージョ。何にでも合うんです」
 気にした様子もない。妙に泰然としているのがしゃくだ。仕事中もこれくらいの余裕を見せてほしい。
 「私はブラッディマリーで、お願いします」
バーテンさんが視線を向けてくるので、みつほもちょっと慌てて頼んだ。
「濃いめで」
とっさに一言添えて。

 「怖い名前のお酒ですね」
 手早く出された真っ赤な液体に、畠山が目を丸くする。
 「知らないの?」
 「ここじゃこれしか飲まなくて」
 対称的に白い液体が入ったグラスが掲げられる。
 「お子様」
 言いながら、みつほも自分の杯を手に取った。
 バーテンさんはおすすめのアヒージョとやらを作るべく、奥に引っ込んでしまっていた。みつほたちしかいない空間に、金属同士が触れる音が響いた。

 「でも、来てくださってありがとうございます。秒で断られるんじゃないかと」
 お互い一口飲むと、畠山はしみじみとした調子で言った。
「どういう奴だと思ってんの」
 みつほは早くも二口目をあおる。身体がかっと熱くなった。辛口の味付けに頭がしびれる。本当に濃くしてくれたようだ。
 「私だってそういう気分になることもあるよ」
 
 「そういう気分?」
 「さえない後輩の誘いにもついて行きたくなっちゃうくらい弱った気分ってこと」
 1秒前まで考えてもいなかった言葉が口から飛び出た。
 何を言っているんだと押し留めようとする自分をアルコールが殴りつけてのす。びりびりする電気が喉をつたって身体に行き渡り、むちゃくちゃに動かしている。
 
 違う――グラスを傾けるのはみつほの手で。こんな風に思いもよらないことを言わせるのも、また自分で。
 「弱ってるん、ですか」
 遠慮がちな反応が刺激となり、みつほをさらに踏み込ませる。

 「そう。そうだよ。私弱ってんの。もう家に帰るのだって億劫なくらい」
 畠山の方に顔を向けてしなだれかかった。
 「ね、このあと、あんたの家行こっか」
 2人の肩と肩が触れ合っている。一方の筋肉がこわばったのが分かった。

 「……円さん、酔ってますね」
 「こんなんで酔わないよ。飲むのなんていつものことだから慣れてる。私ね、片付けもしてないきったない部屋で、毎日一人で晩酌してんの」
 本当に熱い。勢いよく飲み過ぎ。くらくらしそうだ。でも口から溢れてくる言葉は冷水みたいに冷たくて。どんどん自分の心を寒々しくさせる。
 「ね、いいじゃん。畠山君もそういう下心少しはあったでしょ。なんで黙ってるの?え、もしかして私がこんなだって知ってドン引き?もうムリ?ほら何か言っ」
際限なく持ち主を傷つけようとしていた唇の動きは強引に止められた。

 別の唇によって、とかそういうロマンチックな展開ではない。
 畠山がいきなり腕を伸ばして、手のひらをみつほの口に当てたのだ。
 みつほは驚いて反射的に息を止めた。口を閉じようとして、当然のように噛みつく形となった。
「いって」
 畠山が顔をしかめる。その声に我に返ったみつほは、あわててぱっと離れた。
 
 「バカ。アホ。キモい」
 両手で口元を覆って、こもった声で畠山を罵倒する。歯にまだ感触が残っていた。
 「ひどいっす」
 手をぶらぶらさせながら畠山は微笑む。
 「でも、元気になったみたいで、良かったです」
 「元気なんて」
 もっとこきおろしてやろうとしたところで、みつほははたと黙り込む。自分を痛めつけるような酔いも、凍えるような悲しい気持ちも全部吹き飛ばされてしまっていた。

 悲しい?
 
 「どうしたらいいか分からなくって。とっさに手が伸びちゃいました。すみません」
 畠山はまた謝っている。謝るくらいならやるなと思ったが、言葉にはできなかった。
 視界が歪む。
 申し訳なさそうに微笑んでいた畠山が急に真顔になる。
 「元気なんて、出ないよ」
 みつほは言いかけたことを絞り出す。声は震えていた。
 
 「ねえ、畠山君、知ってた?私、課長に片思いしてたの」
 畠山は何も言わない。じっとみつほを見ている。
 「ありえないよね。こんな年になって、片思いなんて。でも、好きだった。すごく。だから、課長が、結婚するって知って、すごく、悲しい」
 城のように積みあがったがらくたに埋もれ、諦めと虚しさの膜に覆われていた気持ちはようやく理解された。
 言葉は切れ切れの小声にしかならない。涙が大粒の水滴となって目から流れ出て止まらない。顔なんてきっとぐちゃぐちゃだろう。
 ひどいありさまだ。こんなことをするつもりはなかったのに。バーテンさんがまだ現れないことを願った。
 畠山は相変わらず無言だ。何を思っているのだろう。みつほには分からない。男の気持ちなんて。

 「そうですか」
 長い沈黙の後、落ち着いた声がみつほの耳に届いた。
 「それはきっと、とても悲しいと思います」
 余計なことを添えない、抑えた口調だった。だから甘えた。
 「君に何が、分かるの」
 手で涙をぬぐいながらそっぽを向いた。店の年季の入った壁と向かいあい、畠山は視界の外へ。
 「分からないと思います。想像しただけです。自分が同じ境遇だったら、どんな気持ちになるか」
 「ほら。どうせ君みたいにのほほんとしてちゃ、失恋したことだって、ないんでしょ」
 「ひどいなぁ。どういう奴だと思ってるんですか」
 苦笑する気配+おどけるような気配。
 「真似しないでよ」
「仕返しです。僕だってそんなような経験くらいありますよ。しかも結構最近」
 「ふん」
 ようやく涙が完全に止まり、みつほは壁から手元へ目を泳がせた。気づけば、かすれ気味ながらも普通の声で話していた。畠山との会話が平静に戻してくれていた。

 「気になるじゃん。まさか、相談したいことってそれ?」
 「実はそうだったんですけど、ま、今日はやめときます」
 「なんでよ」
 そろそろと顔を戻す。畠山がまた現れる。

 「弱ってて、僕なんかに愚痴言っちゃう円さんには話したくないんで」
 その顔は微笑んでいた。
 「すごく仕事ができて僕にも自分にも厳しくて、でも笑顔を絶やさないのが僕の知ってる円さんです。いつもみたいにバーンと指導してくれないと、バーンと」
 「何それ。言ったでしょ、私の部屋とかぐちゃぐちゃで」
 自分はそんな人間ではない、と言いかけた。その前に畠山が被せた。
 「そういうところも含めて円さんっす。いいじゃないですか、今日は言いたいこと言い切って、ぐちゃぐちゃの部屋で寝ましょ」

 勢い込んで前のめりになった畠山の身体が近づいた。
みつほはそれまでと違う方向に胸が跳ねるのを押さえられなかった。
「それで、元気が出た時に僕の話も聞いて下さったら、嬉しいです」
正面から見つめられる。真摯なまなざし。
こんな顔もできるんだな、と思った。

 「分かった、分かったよ。今日は飲むわ」
 誤魔化すように杯をとる。
 「ありがと」
 最後にぼそっと付け加えた。畠山がからかうような表情になる。
 「結構びっくりしましたけどね」
 「うるさい」
 小突くふりをして、赤いお酒を飲もうとした。少し舐めてやめた。

 「すみません、ハイボールください。あとアヒージョってそろそろ」
 店の奥に声をかけると、言い終わらないうちにバーテンさんが戻ってきた。手には湯気を立てる海老のアヒージョの皿が乗っていた。パンが添えられている。
 「ハイボールもすぐお出しします」
 バーテンさんは初めての低くて渋い声でそう言うと、魔法のような素早さでハイボールを作ってくれた。

 「じゃ、改めて」
 畠山が自分の杯を掲げる。
 「カンパイ」
 声を揃えて、炭酸を流し込んだ。
 シュワシュワ、パチパチ、泡のように散々な気分が消えていく。
 あるいはもう消えていたことに気づいたのかもしれない。

 アヒージョの油にパンを浸して、一口食べてみた。
目を閉じる。噛みしめて、味わうために。
 「めちゃくちゃおいしい」
 「でしょ」
 


 明けた火曜日、みつほは例によっていつもの時間に職場に着いた。
 結局あの後、終電間際まで飲んでしまった。身体は重いが、気分はすっきりしたものだった。
 畠山はまだ来ていない。それほど強くないようで、昨日も途中からずっと顔が赤くなったり青くなったりしていた。多少気にはなるが、向こうから誘ってきたのだから同情はしない。サボったら二度と口を利かないと釘をさしておいたから、そのうち現れるだろう。

 むしろ、畠山が来ないうちに済ませたい用事があった。
 席を立ち、歩き出す。
 「課長、すみません」
 既に自分の席に座って新聞を読んでいた『彼』に声をかけた。
 「ん?」
 「今週、お時間ある日、ありませんか?」



ーー続く(10月29日公開予定)

2017年10月5日木曜日

la la larks二次創作小説『loop』第2章公開!

  
 こんばんは。

 la la larks二次創作小説『loop』第1章公開からはや2週間。
 マイナスが手をつないで目の前に立ちはだかる中、
 時間がたりない、足りてることがたりてないとうめきつつ、
 

 第2章を書き上げました!


 ひとりになると聞こえるんですよ……苦しいならやめていいと………
 でもやはり、僕は物語でla la larksを応援したいです!

 ラララの歌詞から引用させてもらいました。
 ちょっと強引でしたね(苦笑)
 どの曲からか当ててみてください(^^)



 ↓↓↓本編は以下から始まります。↓↓↓


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敬愛する『彼』の婚約を知り落ち込むみつほ。
目をそらしていた嫌なものにも気づかされ、諦めたように日々をなぞる。
そんな彼女に呼びかける者がいた。
良かったら、このあとーー

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『loop-廻る私を置いて行く-』
作:川口 けいた/各章扉絵:ガラス


第2章.



 目の前が真っ暗になる、という言い回しがある。食後の食器を洗いながら、そんなことあるわけないとみつほは自分に言い聞かせている。

 どんなに衝撃をくらって、心が弱っても、目を開けていれば風景は見える。世界の終わりが訪れたように感じていたって。青くて澄んだ空はそこにあるし。差し込む陽光は遠慮なく網膜へ届いている。暗くなったと思うなら、単にそれはとっさに瞼を閉じただけのことではないか。

 反射的にそういう行動をとるというのは、まあ考えられなくはないだろう。何かにぶつかりそうになったときとか。試しに目をつむってみた。暗くはなる。それでも光の存在は感じる。
 もしかしたら万に一つ、動揺のあまり自分が目をつむったことにさえ気づかない、ということはあるかもしれない。怒られるたびにぎゅっと顔をしかめて防御する自分の姿をみつほは想像する。おびえている子供みたいな実年齢二十八歳。

 「あほらし」

 みつほはわざわざ口に出した。そのせいで余計に認めた方が良い、という気分にさせられた。
 視界が暗くなんてなっていないけれど。言い聞かせるみたいにこんなことをわざわざ考えるなんて。
 どうも自分は『彼』が幸せになることに、少なからずショック受けているらしいと。

 “友達の紹介で知り合った年下の子と、っていう話だよ”

 あの日、同期は饒舌に話した。彼女に悪気はなかっただろう。みつほは仕事以外の『彼』の話を彼女にしたことがなかった。信用していなかったわけではないけれど、それとこれとは話が違う。『彼』に対する気持ちはそっと胸に留めておきたかったのだ。

 “仲の良い人との内輪の飲み会で、ちょこっとだけ話したらしくて。私はそこに参加した先輩に聞いたんだけど。ホラあの人”

 同期はそう言って他支店の行員の名を挙げた。みつほも知っている、来年にも課長になるだろうと言われている将来有望な男性だ。確かに『彼』とも年次が近いはずだった。

 “いやー聞けてラッキーだったわ。あんまりしつこく誘ってくるから、この間一回だけ一緒に飲みに行ったんだけど。あ、もちろん何人かでだよ?嫌々行った甲斐があったってもんだね~”

 まだ何か言っていたような気がするが、とてもみつほの頭には入っていかなかった。覚えているのは尋ねたことだけだ。

 “その、お相手は、どんな人なの?”
 “あ、やっぱり気になるよね!なんでもどっかのお嬢様大卒で。中学校からずっとそこに通ってた、みたいな。きっとお金持ちの家なんだろうねぇ。先輩は写真も見たらしくて、かなり可愛かったって。でも何がヤバいってさ、その子の年いくつだと思う?”
 “えっ……。私たちと、同じくらい?”
 “二十五だって。にじゅうご。十一歳差。犯罪じゃんね~”

 畠山より若く、あの人と知り合った頃の自分とほとんど変わらない年齢。とてもかなわないと思った。仲良くなったと浮かれていた今の自分でも。出会った頃の、何も知らなかった自分でも。

 どんどん気持ちが沈んでいく。止めて留めて、大事にしまいこんで、胸の奥底へ沈殿していって。今や腐臭を放っている。
 こんな自分は嫌なのに。足元がおぼつかなくなって、どこにいるか分からなくなりそうだった。

 確かめたくて、手に持っていた片付け途中のお皿をいったん置き、部屋を見た。みつほが暮らす1K。

 そこそこお気に入りの部屋だ。建てられてから五、六年しか経っていないし、防音がウリでいつも静かなもの。家具も別に高級ではないけれど、お気に入りのものでそろえた。自分だけの穏やかで落ち着ける部屋。お風呂とトイレも別だし。
 でも、そこは今、妙にくすんでいるようにみつほには見える。

 床には洗濯物や仕事のカバンが乱雑に投げ出されている。机の上には先ほど食べて置きはなしの惣菜パック。帰り道のスーパーで半額だったものだ。その隣には一緒に買って飲み干したお酒のカン。その下には出しそこなったゴミの袋がぱんぱんになって転がっている。
 今の今まで洗っていたお皿だって、いつから置いてあったか分からない。急に思い立って、だらだら流しに運んだだけ。

 あの日から、というわけではない。日々の生活は、ずっとこんな調子だった。
 始めから分かっていた――『彼』はこんなみつほなど、ただの後輩としか見ていないと。
 
『彼』に追いつきたくて、認められたくて頑張ってきた。
 四年前、仕事に慣れてきて、ともすればこんなものかとなめかけている節があった二年目のみつほは『彼』の有能さに一発でのされた。

 お客様のもとに足しげく通い、どんなにフワフワだったり急だったりする要望にもすぐさま的確に答え、融資につなげて実績とする。それを大変そうな様子さえ見せず、いつもにこやかな笑顔さえ浮かべてこなしていく。それが出会った時から変わらない、彼のやり方だった。

 『彼』のように自分も他人から見てもらいたくて。誰より『彼』に自分を見てもらいたくて。ここまでやってきた。そのおかげで、どうにか仕事ではそれなりに評価してもらえていると自負できるようになった。それでも。

 “ま、わたしたちは仕事が恋人だもんね!”

 話の終わり、同期が無邪気に言った言葉がささくれみたいに胸に刺さっている。
 そんなつもりじゃないのに。
 笑っていた同期だって、なんだかんだで男性からの評判は悪くないことをみつほは知っている。
 きっとえり好みしているだけなのだ。

 ぐちゃぐちゃした思いは一朝一夕では消えてくれず、行き場なく胸の中を走り回っている。こんなありさまになっても。もしくはこんなありさまになるほどに。

 時間がたてば、消えてくれるのだろうか。気持ちにふたをして、全部忘れて、生きていくことができるのだろうか。これからまだしばらくは職場で一緒に仕事をし続けるのに。あまつさえ、幸せそうに振る舞う『彼』の姿を見せつけられるのに。
 消えてほしい。消えると信じたい。そう考えるよう何度も自分に命じた。
 一方で、どうせしばらく、あるいはずっと無理だと冷笑しながら。

 気づけば24時を回っていた。身体に響いてくる時間。しかも明日は月曜日だ。
 「お風呂、入らなきゃ」
 自分に言い聞かせるように呟き、のろのろとバスルームに向かう。

 お湯が張れたら、さっさと入って、寝てしまおう。最近寒くなってきたから、身体をよく温めて。起きたら食事をして、いつも通りの時間に出て、仕事をすればよい。
 そうやって、同じ毎日をなぞっていけば……。




 翌朝、みつほは予定通り、まったくいつもの時間に家を出た。ルーティンに従ったわけだ。そうするのが一番楽だった。
 車窓を流して、下を向いて道を歩いて、気づいたら職場に着いていた。
 「おはよう、ございます」
 一瞬のためらいが歯切れ悪く現れた。何か気取られたのではないかと自意識過剰になる。もちろんそんなことはなく、まばらな返事があっただけだった。

 「っす、円さん」
みつほの課にいたのは畠山だけだった。相変わらずもごもごした口調だ。『彼』はまだ来ていない。

 カバンを置いて席に座って、パソコンを点ける。自分も機械になったみたいに手を動かしながら、みつほは目も向けずに畠山に声をかけた。
 「畠山くんってさぁ、結婚願望とかあるわけ?」
 排水溝が詰まったようなヘンな音が隣からした。見れば畠山がごほごほせき込んでいる。手にはペットボトル。飲もうとしてむせたらしい。

 「ちょっと、こっち飛ばしてないよね」
 嫌悪感を隠さず引き気味になる。
 「い、いえ、自分にちょっとこぼしただけです。すみません」
 畠山は口元をハンカチでぬぐいながら言う。ようやく落ち着いたようだ。
 「け、結婚願望ですよね。無くはないですよ。でも今は彼女もいないですし」
 伏し目がちな様子に苛々する。そんなだから彼女もできないのだと言ってやりたくなる。
 「ふーん」
 広げるのも面倒くさくなって、みつほはそれだけで済ませた。自分で聞いておいて酷いやつだと自嘲的に思った。

 その時、シチュエーションに急に既視感を感じた。
 記憶から立ち上ってくる風景がある。
 今の畠山の立場にみつほがいた頃、『彼』の指導を受けていた当時。同じような会話をしたのだ。
 ただし尋ねたのはみつほからだった。先輩は結婚とかしたいんですか?と。昔はもちろん今のように役職で呼んだりしていなかった。

 “もちろんしたいさ。今は相手がいないけどね”
 『彼』は朗らかに笑って答えてくれた。それを聞いたみつほはチャンスだと勢い込み、厚かましくも好みのタイプまで尋ねたのだ。
 “そうだなぁ。自分より年下で、行動力があるといいけれど。お互いのことを一番に考えられる相手ならあとはなんでもいいよ”

 自分こそそうだと言いたかった――結局思うだけで言わなかった。言わなくて正解だった。
 そんなものは全くの嘘で。現実は全然見当違いだったのだから。
 私の一番はあなただけど、あなたの一番は私じゃなかったんですね。

 時計を見る。もう朝礼の時間が近い。他の課員もそろそろ揃い始めた。『彼』はまだ来ないのだろうか。
 疑問に思ったちょうどその時、小走りで入ってくる『彼』の姿が見えた。

 「おはようございます」
 さっきの自分を打ち消すつもりで、少し声を大きくしてみつほは先手を打った。同僚もばらばら続く。
 「ああ、おはよう」
 『彼』が笑顔で答えてくれる。なんだか息をついている様子だ。

 「出るのが遅れてしまってね。年甲斐もなく慌ててしまった」
 尋ねる前に今度は先手を打たれ、みつほは急いで作り笑いをする。上手くできているだろうか?
 「珍しいですね」
 「ちょっと理由があってね。後で話すよ。……では皆さん、集まってもらえますか」

 全員が揃ったのを確認して『彼』は口を開いた。
 「今日は初めに、私事ですが報告をさせてください」
 みつほの心臓が跳ねる。来るものが来たと思う。
 「実は結婚することになりました」
 上手くやれ。みつほは改めて自分に命じた。震えそうになる身体をどうにかこわばらせるだけで抑えた。
 周りがざわめき、ささやかな歓声が起こる。

 「家も引っ越して、二人で住み始めたので慣れなくて。今日はこんなギリギリになってしまいました」
 「課長、出てきたくなかっただけじゃないんですか」
 同僚が茶々を入れる。
 「それもないとは言えないかな」
 『彼』が照れたように微笑むと、どっと笑いが沸いた。

 「式は年末を予定していて、皆さんも招待させてほしいと思っています。よければぜひ」
 一礼。皆が穏やかに拍手をした。
 「ありがとうございます。では、今日の予定から」
 その後はいつも通りの朝礼が続いた。
 みつほはずっと真面目な様子で聞いていたつもりだ。うつむき加減ではあったけれど、おかしくは見えなかったと信じたい。
 でも、上手くできた気なんて、全然しなかった。




 その日の仕事をみつほは流すようにこなした。お客さんにお会いするような機会もあったけれど、どのようなことを話したかろくすっぽ記憶に残っていない。申し訳ないとは思うが、心がついていかなかった。移動の道のりで吹きすさんだ風がとても冷たくて寒々しかったのは妙に覚えている。冬はまだ先のはずなのに。

 早く帰ってしまいたくて、就業時間を過ぎたら早々にデスクを片付けにかかるつもりだった。けれど身体は妙に重くて。気は急いているのに、なんだか遅々として進まなかった。そうこうしていたら、引き出しにしまおうとした書類を落としてしまった。音をたてて床に散乱するA4用紙の束。

 「うわっ」
 思わず声を出した。吐息が漏れる。
 いったい何をやっているのだろう。
 こんなことで、こんなざまだ。

 椅子の上から身を屈めて手を伸ばす。そのまま頭でも抱えてしまおうかな、と投げやりな考えがよぎったが、それは実現することはなかった。かわりに指先は、別の人間の腕に触れた。

 「あ」
 腕の主が間の抜けた声を出す。こちらを見て目を見開いている、畠山だった。隣の席からわざわざしゃがみこみ、書類を拾おうとしてくれたらしい。
 「す、すみません」
 畠山はすぐに下を向いてしまい、慌てた様子で書類を集めてくれる。みつほの視線の先に後頭部があって、もさもさした髪の毛と赤くなっている耳が見えた。

 「なんで謝んの……。ありがと」
 呆れて言い、立ち上がった畠山の手で綺麗にまとめられた書類を受け取る。
 「あ、いえ、すみません」
 肩をすくめて、結局また謝っている。それで済んだと思ったが、畠山は一向に席につこうとしなかった。

 「どうかした?」
 しびれをきらして尋ねると、畠山はしばらく挙動不審気味に目を泳がせたが、やがて意を決したようにみつほを見た。
 「円先輩、今日はもうお帰りですよね」

 「え?う、うん」
 妙に真っ直ぐ見つめられたので、みつほはなんだか身構えた。イスに座っているので見下ろされるようなかたちになっている。思ったより背が高いな、などと脈絡なく考えた。
 
「良かったら、このあと飲みに行きませんか。ちょっと、ご相談したいことがあるんです」
 畠山は視線をそらさないままそう言った。耳がまだ赤かった。


ーー続く(10月第3週公開予定)